可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 佐々木高信個展『indication of the existence』

展覧会『佐々木高信展「indication of the existence」』を鑑賞しての備忘録
GALERIE SOLにて、2023年5月22日~27日。

静物画や風景画16点で構成される、佐々木高信の個展。

「風景」と題された木炭の素描シリーズ7点には、住宅の切妻屋根やビルの陸屋根が樹影などとともにぼんやりと浮かび上がる。密集する建物というモティーフが模糊として表わされたモノクロームの世界は、現存する最古のカメラ写真である、ニセフォール・ニエプスの《ル・グラの窓からの眺め》を容易に連想させよう。

「兆候」と題された油彩画シリーズのうち3点には、瓶、木材、箱、布(ないし紙)で梱包された何かが、コンクリートが剥き出しとなった室内と思しき灰色の空間に並べられている様子を描いた静物画である。モノクロームではないが、青味を帯びた灰色を基調とする世界は、建物を描いた木炭の「風景」シリーズに通じる。建物が人の容れ物であるならば、瓶や箱、あるいは布(紙?)や木材もまた何かの容れ物であり、あるいは包み支えるものなのである。コンクリート打ちっぱなしの室内という容れ物の中にある容れ物という点で、文字通り「入れ籠」の関係を描いた作品とも言える。

「兆候―箱」シリーズ3作品(いずれも500mm×650mm)は、いずれも段ボール箱を1つの側面からやや俯瞰する視点で捉えた、鉛筆による素描。ガムテープを貼り付けた部分を無視して無理にこじ開けたような跡がある。画面左からの光によって主に右側に影が出来ている。
段ボール箱はガムテープの封により閉じられ、わずかに引き裂かれた部分だけでは中に何が入っているのか――あるいは入っていないのか――は分からない。箱に穿たれた穴は、鑑賞者に箱の中味を確認させる衝動を呼び覚ます。とりわけその穴が乱暴に破かれるていることで、マルセル・デュシャンの《遺作》における扉の覗き穴を連想させ、窃視ないし視線の暴力を訴える。
また、段ボール箱は6面のうち2面のみが描き出されている。段ボール箱との判断は極めて限定的な情報からの推測であり、人間の認識能力の限界を暗示する。そもそもそれは段ボール箱なのかという疑義を有しながら段ボール箱と断じるならば、それは暴力的である。
さらに、段ボール箱は容れ物という点で、絵画という媒体と共通する性格を持つ。その意味では絵画の絵画という入れ籠の関係を表す作品と言える。全ては1枚の紙の上の図像に過ぎず、そこでは全てが等価となる。そこにはやはり暴力性が認められる。
それでは、「兆候―箱」シリーズが目指すのは、視線の暴力を訴えることなのだろうか。シリーズ単体で見ればそう解することもできようが、「indication of the existence」を構成する上記作品も併せて解釈すべきであろう。

 眼識(視覚)について、考えてみよう。我々はふつう、外に物があり、内側に心があって、心は眼(眼根)を通して外の物をそのままに見ている、捉えている、と考えている。では心は、外のものをどのように捉えるのであろうか。鏡が物を映し出すように、心は物を映しだすのであろうか。しかし外の物を心がどのように写すのかを問う時、その説明はなかなかにむずかしくなるし、一方、鏡のような心とはどこにあるのか、確かめることもむずかしいであろう。
 今日の科学的な観察によれば、仮に外に物があるとして、その像が眼球の網膜に映り、その情報は信号化されて視神経を通じて脳に伝えられ、脳はその情報を演算・解読して、元の物を視覚上に再現する、ということになるのではないであろうか。この場合、我々が見ているものは、それぞれの脳が再現した映像なのであって、外の物を直接、見ているわけではないことになる。このこと自体は、間違いないところであろう。
 (略)
 そうすると、たとえば視覚においては、脳が現わし出した映像を脳自身が見ているということになる。視覚は、視覚の中に浮かんだ映像を視覚自身が見ているわけである。そのはたらきを心と言えば、心は心の中に映像を浮かべてそれを見ているようなものということになる。けっして外の物を写しとる鏡のようなものなのではない。心は、心の中に対象面を有して、しかもそれを見ているものなのであり、そこに対象面と主観面の双方が存在しているものなのである。それは、種々の色が見えている事実の1つの表現でもあり、すなわち事そのものでもあるわけである。(竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社/2021/p.29)

「視覚の中に浮かんだ映像を視覚自身が見ている」という視覚の「はたらきを心と言えば、心は心の中に映像を浮かべてそれを見ているようなもの」である。「けっして外の物を写しとる鏡のようなものなのではな」く、「心は、心の中に対象面を有して、しかもそれを見ている」という「対象面と主観面の双方が存在している」状況。これは、山中信夫がピンホールカメラに仕立てた部屋に入り込んで撮影した写真作品を連想させる。それは部屋であり、カメラであり、写真である作家の行為が作品となっているからだ。
作家が絵画を通じて提示する「存在の兆候(indication of the existence)」もまた、山中信夫同様、自らカメラ(=camera obscura=暗い部屋)に入り込んだ「対象面と主観面の双方が存在している」出来事を表現したものではなかろうか。ニセフォール・ニエプスの《ル・グラの窓からの眺め》のような木炭デッサンは、作家自らがカメラ・オブスクラとなって世界を写し取ったのだ。ならば「兆候―箱」シリーズにおける穴の開いた段ボール箱とは、カメラ・オブスクラであり、作家の自画像ということになる。

 (略)円成実性は、真理の世界と言いうるもので、誤解を恐れずに言えば実在の世界である。それは依他起性の本性の世界のことに他ならない。依他起性は、縁起の世界でもあり、刹那滅の世界でもあり、いわば映像の世界でもあって、まったく本体のある世界ではない(無自性)。ある事象に実体(常住の本体)がないことを空という。したがって、依他起性は空なる世界である。無だというのではなく、無自性であり空であり、仮有の世界である。この依他起性の本質・本性は空であることにある。この「空であること」を、空性という。時々刻々変化していく現象世界をにもほかならない依他起性の、その本性は空性である。この空性の面を取り出して、円成実性と言うのである。
 この空性は、諸法の本性としての法性でもあり、それをまた、迷うおうが悟ろうが変わらない、真実・如常なるものとして真如ともいう。それら空性・法性・真如は名前の差異のみであって、同じものでもある。それを円成実性とも呼ぶのである。
 依他起性は、時々刻々変化していく現象世界である。その本質・本性の円成実性は、空性として、もとより変わらない世界である。その真如・法性のことを、完全で(円満)・すでに確立されていて(成就)・変わらない(真実)ということで、円成実性という。円成実性の語を一見すると、将来、修行が果たされて完成するものというイメージで受け取りやすい。しかし事実はそうではない。円成実性は、すでに成就しているものなのである。我々がさまざまな無明・煩悩を起こして、どれほど自我にしがみつき、物に執着しているとしても、あるのは八識〔引用者註:五感と意識、無意識の自我に対する執着(=末那識)と、全く不可知の無意識(=阿頼耶識)〕の活動のみであって、それは空性を本性としている。ゆえにその執着のただなかに、すでに円成実性が存在しているのである。このことをよく見究めておく必要がある。(竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社/2021/p.51-52)

作家は、存在(existence)を、「縁起」であり「刹那滅」であり「映像」である世界の出来事として指し示し(indicate)てみせるのだ。