可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 久松知子個展『ホワイトキューブの向こう側』

展覧会 久松知子個展『ホワイトキューブの向こう側』
NADiff a/p/a/r/tにて、2022年8月11日~21日。

久松知子の絵画展。地下のギャラリーに展示されている9点の他、1階のショップ内にも飾られた作品がある。

《deinstallation #1》(803mm×803mm)は、床に置かれた段ボールの中にガムテープやボンド、工具などが詰められている様子を描いたもの。床や段ボールを長いストロークで単純化して表わすことで、箱の中のモティーフを引き立ている。ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)の林檎を描いた静物画と対照すれば、テープの入った段ボールは、リンゴを持った器と相似をなしていることに気が付く。
《deinstallation #2》(1120mm×1455mm)は、コンベンション・センターで行われた催事の撤収状況を描いている作品。無人の広い展示空間には、木製のクレート、降ろされた照明バトン、昇降機などが置かれるとともに、ゴミが散乱している。青味を帯びた艶やかな床は、恰も水浸しになったようにも見える。クロード・モネ(Claude Monet)の《アルジャントゥイユの洪水》などと比較すれば、柱やクレートが水没した木立に見えてくるかもしれない。
《deinstallation #5》(1120mm×1455mm)は、床に置かれたポリエチレン製の緩衝シートを描いた作品。白いシートには、作品に被せる際に留めた黄緑のテープがいくつか付いている。床は木製のようで茶色い。これが美術館の展示室に置かれていれば、作品と見紛うかもしれない。周囲の壁らしき場所は白と青で塗られ、恰も空のようである。美術が周囲の世界から隔絶していることを示すようでもある。

《cage cargo》(1000mm×1000mm)には、真っ白な壁と床の空間に置かれた緑色の鋼製カゴ車3台と、それらに載せられた段ボールで梱包された絵画、そして床に置かれた段ボール箱が描かれている。左側と中央のカゴ車には中間板が2枚挟まれ、比較的小型の段ボール(絵画)が並べられている。右側のカゴ車には中間板がなく、大型作品が積まれている。カゴ車の絵画が壁に作る壁は群青で、棚板の下の床に作る影は濃紺である。床に積まれたダンボ-ルはその色を白い床に映じている。バックヤードの可能性もあるが、壁や床が極めて明るい白で表わされていることから、照明の点いている展示室での搬出(あるいは搬入)作業中と考えるべきであろう。

 すでにひろく指摘されているように、美術館は、過去の作品を、その作品が制作され、鑑賞されていた場から切り離して、その切り離されたもの同士を並列に並べてゆくシステムとして登場した。作品は場との関連性をまったく失い、また、隣接する作品との意味的な連関もきわめて希薄になり、ほとんどの場合、相互に等価なものとして鑑賞者の前に並ぶことになる。このような美術館のあり方は、早くにはカトルメール・ド・カンシー(1755-1849)が「文脈からの切り離し」と「傑作の羅列」という視点から批判しているが、近代以降の美術館の大きな流れは、このカンシーの批判にもかかわらず、作品を孤立化させる方向に進んできた。これには、「1つの絵画の前で瞑想できるようにになるには、その絵は、良い照明と、静かな環境のなかに置かれなければならない」というル・コルビュジエ(1887-1965)のような主張が背後にあることはいうまでもないお。そのような傾向が顕著になったところに生み出されたのが、いわゆる「ホワイトキューブ」である。
 ホワイトキューブは、文字通り白い方形の展示空間を意味する。白は、壁面や床、天井の色であり、これは作品を美術全集の図版と同じように際だたせるために選択された。方形の空間も夾雑物のない平面に作品を羅列するのにふさわしいハコとして採用されている。
 つまり、ホワイトキューブは、作品をできるだけニュートラルな状態でみせるために、その周囲の空間を構成する壁や床、天井などは極端なまでに個性を主張しないものとなっている。ここでは、展示空間は、場として、空間として何の意味ももたず、壁はただたんに作品を垂直に支える支持体でしかなかった。どの部屋もどの壁も等価であるから、そこに展示される作品相互には、なんのヒエラルキーも生じないのが原則である。もちろんそこには、作品をどのような順番で配列するかという点での前後関係はあり、その前後関係は、学芸員より紡ぎ出された一種のストーリーでもある。しかし、それはあくまでも近代の美術館制度を前提にしたストーリーであり、作品が本来もっていた歴史的文脈とは別のものである。
 ホワイトキューブは、作品を過去の文脈や相互の関係から切り離して、羅列的、並列的に鑑賞できるようにするために生み出されたものだ。そしてそこでは、鑑賞者の目線に合わせた作品の高さや作品相互に妨げにならないような作品間の間隔といった約束事も、一種の経験値として決められてくる。
 このようなホワイトキューブが意識したのは、まず第一に平面芸術である絵画であった。このことは、鑑賞用のタブロー形式の絵画が確立・定着しているヨーロッパの伝統を正しく反映していた。あるいは、それ自体が近代的な写真という媒体もまたホワイトキューブの得意とするところであった。もちろん、近代以降、美術館に(ということはつまりホワイトキューブに)陳列されることを前提とした、あるいは、それを望んだ作品が制作されるようになってきたことも事実である。(並木誠士・中川理『美術館の可能性』学芸出版社/2006年/p.117-119〔並木誠士執筆〕)

「作品を過去の文脈や相互の関係から切り離して、羅列的、並列的に鑑賞できるようにするために生み出された」ホワイトキューブにおいて、カゴ車に載せられたタブロー形式の絵画は段ボール箱に梱包された状態で提示されている。ホワイトキューブ段ボール箱という2つの箱によって、絵画が欧米の近代的なシステムの中で整然と価値付けられている状況が強調されている。
もっとも、作者は、欧米近代の美術制度の「標準化されたルールや形式は見かけだけの共通点」であり、制度が「非欧米圏各地に定着するときに起こる変質としてのローカライズ」に着目しているという。「ホワイトキューブの向こう側」にある。西洋近代の美術制度が「黒船」によってもたらされたものであるなら、ホワイトキューブと絵画とを「コンテナ船」に積まれた「コンテナ」に見立てることも可能だろう。コンテナ船が放出するバラスト水は寄港先の環境を変化させる。床に置かれた、おそらくはタブロー形式ではない作品を収納した段ボールは、「バラスト水」により変化した環境、すなわち現地の美術やその制度が欧米の美術制度によって変容した姿を表わすものかもしれない。