可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ヒンターラント』

映画『ヒンターラント』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のオーストリアルクセンブルク合作映画。
99分。
監督は、ステファン・ルツォビツキー(Stefan Ruzowitzky)。
脚本は、ロバート・ブッフシュベンター(Robert Buchschwenter)、ハンノ・ピンター(Hanno Pinter)、ステファン・ルツォビツキー(Stefan Ruzowitzky)。
撮影は、ベネディクト・ノイエンフェルス(Benedict Neuenfels)。
美術は、アンドレアス・ソボトカ(Andreas Sobotka)とマルティン・ライター(Martin Reiter)。
衣装は、ウリ・サイモン(Uli Simon)。
編集は、オリバー・ノイマン(Oliver Neumann)。
音楽は、キャン・バヤニ(Kyan Bayani)。
原題は、"Hinterland"。

 

暗闇の中に坐る男。俯きながら前を睨んでいる。
大戦に敗れた。オーストリアは誇り高き帝国から取るに足らない小国へと成り下がった。皇帝は退位し、共和国が建国された。兵士が帰還するのは、かつての祖国とはまるで異なる世界だ。戦争が終って数年に亘って足止めを喰らった者もいた。
男が顔を上げる。男の目から涙が零れ落ちる。
ドナウ川を航行する船。鼠が駆け回る真っ暗な船倉で、横たわる瀕死のゼスタ(Konstantin Rommelfangen)を7人の兵士が囲んでいる。…全て無駄だ…徒労だ…。貴様は祖国と皇帝のために犠牲を払った。忘れられることはない。ピーター・ペルク中尉(Murathan Muslu)が慰める。…手紙…母に…約束だ…。自分で母親に渡せよ、もうすぐだ。コヴァチ(Aaron Friesz)が励ます。ゼスタを囲む兵士たちが歌い出す。血みどろの死闘を潜り帰りてん見渡す限り旗ぞはためく…。ゼスタが力尽きる。お別れだ、ゼスタ。
ピーターが遺体を運び、ハッチの下で床を踏み鳴らす。頭上のハッチが開かれ、船長(    Nilton Martins)らが姿を見せる。彼は到着まで持たなかった。服を脱がせて川に投げ込め。憤激するピーター。家に連れ帰ると約束した! 貴様ら全員川に沈みたいか? 話が違うぞ!
左舷から戦友たちがゼスタを川に落とす。港ではあれこれ詮索される。死体が無けりゃ話が早い。船長はピーターに告げるともなしに言う。息子がどこに眠っているか知ることは母親には大事なことだ。何年も経ってるんだ、母親がまだ生きてるかさえ定かじゃない。ウィーンだ! 叫び声が上がる。船の行く手に懐かしい都の姿が現わした。荒れ果てた川岸には無縁墓地の看板があった。流れ着いた死体を埋めるんだ。自殺か他殺かはともかく、行方不明者ではないな。船長が説明する。
ウィーンのフロイデナウ港。渡り板で岸に降り立ったヘレシュマティ(Lukas Walcher)が泣き崩れて突っ伏す。道を空けろと荷役作業の職長(Lukas Johne)が大声で触れて歩く。ピーターが帝国軍のペルク中尉だと名乗るが、今日日何言ってやがると相手にしない。倉庫に石炭を運び込めと荷役作業員に指示を出す。あれは何だ? 足を引き摺るクライナー(Timo Wagner)が職長に尋ねる。共和国の国旗だ。皇帝などいない。茫然とする敗残兵一行。隊列は組むな。ピーターは6人になった隊員に告げる。7名の帰還兵は建物が密集し、煙突が煤煙を吐くウィーンの街路を力なく歩いて行く。
陸軍省の1室。整列するピーターたち前にシュタイナー大佐(Peter Moucka)が語る。わし自身、南部戦線のイゾンツォで5回戦闘を経験した。だがサンジェルマン条約だ。戦争については皆忘れようとしておる。大佐が笑い出し、帰還兵たちは動揺する。私どもは祖国のため2年以上虜囚の憂き目を見ました…。全て変わってしまった。かつてあったものは全て失われたのだ。暗黒の時代だよ。これを。大佐はピーターに赤い紙切れを渡す。赤い家、救貧院だ。寝床や食い物に困ったら行け。諸君は除隊となった。大佐がピーターらを置いて出て行く。
陸軍省の中庭。中尉、これからどうなるんです? ピーターはクライナーの手にする救貧院の赤い紙切れを取ると、必要があればと、住所を書いて渡す。諸君、ここで解散だ。ヘレシュマティ、コヴァチ、バウアー(Stipe Erceg)ら1人1人と挨拶を交わすと、幸運を祈ると言い残してピーターが立ち去る。
ウィーンの雑踏を抜けて歩くピーター。アヘンを宣伝するアジア系、銀製品食器を売り付けるユダヤ人、施しを乞うイゾンツォ帰りの傷痍軍人、兵士を憎み平和を訴える女性、女を買うよう持ちかける男。
夜。ピーターがアパルトマンに辿り着く。しばし建物を見上げる。自宅のベルを鳴らすと管理人(Margarete Tiesel)が戸口に姿を見せる。誰だい? 警察を呼ぶよ! 部屋から飛び出して来た犬がピーターに尻尾を振って寄ってきた。ピーターだと気付き、管理人は驚く。アナ(Miriam Fontaine)はもういないよ。

 

1920年第一次世界大戦で敗れたオーストリア帝国陸軍のピーター・ペルク中尉(Murathan Muslu)は、抑留されていたロシアから6人の部下とともにようやくウィーンに帰還した。共和国の首都として急速に復興するウィーンに、皇帝の敗残兵の居場所はない。復員のため陸軍省に向かうと、シュタイナー大佐(Peter Moucka)から救貧院の案内を渡されただけで除隊となった。ピーターがアパルトマンに帰宅すると、管理人(Margarete Tiesel)が現われ、妻アナ(Miriam Fontaine)は妹を頼って、娘マレーネ(Marlene Pribil)とともにウィーン南郊のグンポルツキルヒェンに移ったと告げられた。
建設工事現場で磔にされて拷問された20代の帰還兵の遺体が発見された。現場を訪れた警視ヴィクトール・レナー(Marc Limpach)が警部パウル・ゼヴェリン(Max von der Groeben)や法医学者テレーザ・ケルナー(Liv Lisa Fries)から捜査・検視の報告を受ける。遺留品の貧窮院の案内状にピーターの名前と住所があった。パウルはピーターを逮捕して警察署に連行する。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

ピーターらオーストリア帝国兵士はロシアで過酷な抑留生活を送り、敗戦2年後にようやく故国の土を踏んだ。だが皇帝が退位して共和国となったオーストリアはサンジェルマン条約により軍隊保有が制限され、ピーターらは貧窮院の案内状だけ渡され除隊となる。
首都ウィーンは槌音が高く鳴り、煤煙が濛濛と立つ。街路には人々が溢れている。かつて皇帝に抑圧された人々は共和国を誇りにし、平和を望む女性たちは兵士は憎む。
ピーターは従軍以前、数々の凶悪事件を解決する敏腕な刑事であった。パウルのような若い共和国の刑事には、帝国時代の警察官は皇帝の暴力装置として蔑まれる。また、ピーターが生死不明の間、妻アナは娘マレーネはピーターの元同僚であるヴィクトールに生活を支えられ、彼と関係を持っていたことを知る。妻子は自宅でピーターを待つこと無く、郊外に転居していた。
様変わりした社会に自分たちの居場所がないことに絶望するポールらの抑留された帰還兵の見る社会が、ジョージ・グロス(George Grosz)やルートヴィヒ・マイドナー(Ludwig Meidner)ら表現主義の画家が描くような、斜めに立つ建築群の描写によって示される。また、水平ではなく角度を付けた画がいつでも転がり落ちる敗残兵たちの不安定な立場を象徴的に現わす。前線に立つ兵士を後方(Hinterland)から撃つような、戦後社会の残酷さを、人々の言動と相俟って強調する。
ウィーンで発生する帰還兵ばかりを狙った連続殺人。残虐な拷問を加えられた被害者は、戦争の狂気を戦後の首都に伝える犯人からのメッセージである。