可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 金子佳代個展『A VIEW BEYOND』

展覧会『金子佳代「A VIEW BEYOND」』を鑑賞しての備忘録
Alt_Mediumにて、2023年9月15日~27日。

《プラムたち》など同じ図像を繰り返す作品、《三人がふたりかひとり》など額の外に継ぎ足す作品、《夏の感じ》など既存の絵画の断片に描き足す作品など、無限の世界へ誘う絵画29点で構成される、金子佳代の絵画展。

《レモンイエローの三猿》は、レモンイエローの画面に三猿のモノクロームの絵が貼られている。右上に目を覆う「見ざる」、右下に口を覆う「言わざる」、左下に「聞かざる」。そして、それら三猿との間に仕切り線が引かれ、左上には、もう1匹の「言わざる」とともに、猿の尻尾が覗いている。これは、《レモンイエローの三猿》の左に掲げられている《朱色の三猿》の「聞かざる」である。《朱色の三猿》では、右上の「聞かざる」、右下の「見ざる」、左下の「言わざる」のグループと、左上の「見ざる」とまた別の猿の尻尾との間に仕切り線が描き込まれている。
三猿は「たくさん」に対する志向の象徴だ。それは無限に対する志向と言い換えられる。
《三人がふたりかひとり》は、二人の女性の横顔を後頭部で接するように描いたモノクロームの作品である。この作品を収めた正方形の白い額の下には、壺のような絵を描いた紙が継ぎ足されるように壁に貼られている。額の中の女性(2人、あるいはいずれか)の編んだ髪がまっすぐ下に垂れている。「壺」は腰に両手を当てた別の女性の後ろ姿でもある。即ち描かれているのは3人であり、それが不思議なタイトルの所以である。

 3は、世界をかぞえるうえで、本当の意味でのスタート地点だ。1は必須要件――つまり私で、今日で、現在だった。2で初めて状況がすこし複雑になる――つまりあなたで、そばで、次だった。ところが3は、向こう、遠く、ほかの人たち、外の世界、ひいては宇宙になる。諺にいう「ふたりなら仲間、3人なら他人」のとおりだ。
 子どもは、1と2の違い――単数と複数、「1」と「1よりひとつ上」との違い――を早い時期に覚える。だがその先に進みだすと、ときに3を跳び越して、1、2、4……などとかぞえる。3は、2より理解するのが難しい。そしてこの難しいことを飛ばす子どものやり方は、実は上位の概念の把握の仕方を示してるいる。2のあとに来るのは「たくさん」で、そのギャップが違いを際だたせているのだ。
 シュメール人は、まさにその違いを際だたせていた。彼らの言語で「ゲス」は1だけでなく、男、雄、勃起したペニスも意味していた。「ミン」は2と女性を表わしていた。3を意味する「エス」は、複数を示す接尾語の役目も果した。これは、英語で複数形につく語尾sやesによく似ている。すると、2までは男と女のようなペアで、3から「たくさん」が始まることになる。3は単数や両数(ふたつ)ではなく、多数のしるしなのである。古代エジプトヒエログリフでは、同じ記号を3回書いて大量の意味を表した。ま古代中国語では、人を意味する表意文字を3つ重ねることによって群衆の概念を示していた。また、「木」の文字を三つ並べたものは、「森」を意味する。
 (略)
 文法でも、違う言い方で「たくさん」が語られている。ひとりめの人間は「自分」、ふたりめは「あなた」、3人めは「ほかのだれか」となる。具体的に言えば、I(私)、you(あなた)、he(彼)かshe(彼女)で、複数ではひっくるめてthey(彼ら、彼女ら、それら)となる。これは、われわれの心の文法における、数の活用とでも言えそうだ。私は1,あなたは2,彼や彼女やそれ――まとめてthey――はたくさん。要するに、theyは私でもあなたでもない何もかもだ。こんなふうに、われわれは世界を整理している――私、あなた、彼ら、と。(バニー・クラムパッカー〔斉藤隆央・寺町朋子〕『数のはなし――ゼロから∞まで』東洋書林/2008/p.58-59)

3は「たくさん」であるのみならず、「向こう、遠く、ほかの人たち、外の世界、ひいては宇宙になる」。《三人がふたりかひとり》はミクロコスモスであり、マクロコスモスとの照応へと拓かれている。
遠目には猪熊弦一郎のデザインした三越の包装紙にも見えなくもない《プラムたち》は、やや紫味のある赤で不揃いな円形に意匠化されたプラムが6列6行の仕切り線の中に配されている。これは何を表現しているのか。

 最も基本的な無限集合、つまり自然数の集合で考えてみよう。0、1、2、3、……という自然数の列には。終わりがない。0から始まって、任意の自然数に対して、後続が、つまり"+1"が存在する。3に対しては4、4に対しては5、……7386に対しては7387……と。このことこそ、自然数の定義そのものである。どの自然数も、「もうこれ以上は後続はない」という限界にはなっていないのだ。あたかも、任意の自然数が、剰余を、「ここでは尽きない」という剰余を生み出しているかのようだ。このような数列の最終的な要素に到達することの不可能性が、素朴な意味での無限、カントール以前の無限である。
 ここで、この「後続に対していつまでも開かれている要素の集合」を、それ自体、閉じられた全体、閉じられた集合として扱ったらどうだろうか。これこそ、カントールが導入した無限集合である。無限集合を独自の対象として措定し、たとえば上位の集合の要素ともなりうる数とみなしたとたんに、無限というもののふしぎな性質、有限集合とは決定的に異なる性質を発見することができる。たとえば、無限集合は、要素の追加(加法)や要素の削除(減法)に対して反応しない。有限集合の場合には、一個の要素を減らせば、その分、集合が小さくなる(集合の濃度が低下する)。無限集合でも同じではないか、と思うかもしれないが、そんなことはない。たとえば「自然数の集合」の中から、最初の要素0を抜き取ってしまい「1以上の自然数の集合」を作ったとしよう。後者は前者よりわずかだけ小さいのではないか、と思いたくなるが、そんなことはない。両者の大きさ(集合の濃度)は厳密に等しい。そのことは二つの集合の要素の間に、一対一の対応を付けられるという事実によって示される。
 今活用した事例にもすでに含意されていることだが、無限集合の最も興味深い性質は、部分と全体が合致するということである。有限集合の場合には部分は必ず全体よりも小さい。しかし、無限集合ではそうはならない。たとえば、「偶数である自然数の集合」は「自然数の集合」の部分である。前者は後者の半分の大きさだと思うかもしれないが、この場合も、両集合の大きさは等しい。「自然数の集合」の任意の要素nに対して、「偶数の集合」の要素2nを対応させれば、やはり一対一の対応が成り立つからである。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021/p.584-585)

作者の無限に対する志向から解釈すれば、《プラムたち》の仕切りはプラムたちのホテルの部屋を表わすようであり、「ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス」を主題にした作品と分かる。

(略)自然数個の部屋がある巨大なホテルがある。今、満室である。そこに、超大型の団体客がやってきて、宿泊を求めた。団体の人数は、やはり無限(自然数人)である。すでに満室のホテルは、もう1人として客を受け入れられないのではないか、と思いたくなるが、ホテルの支配人は、巧みに対応して、団体客の全員にひとつずつ部屋を割り当てることに成功した。支配人はまず、それまでの客の全員を偶数番の部屋に移した。滞在客に、それまで素買っていた自分の部屋の番号を確認し、それを2倍にした数字がついている部屋に移ってもらうのだ。そうすると、奇数番の部屋がすべて空く。奇数の集合ももちろん無限集合なので、無限人の団体客は全員、部屋に入ることができる。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021/p.590〔第23章註8〕)

無限だの無限集合だのを描いた作品群だなどと牽強附会も大概にしろと思われるかもしれない。だが、メインヴィジュアルに採用された《夏の感じ》は、3人――たくさん、宇宙、無限――の人物が水浴を楽しむ姿が描かれており、なおかつそのうち2人は手と足とで円を作るようにして水に浸かっている。"∞"を描いているのである。