展覧会『コラボレーション:岡本敦生+野田裕示』を鑑賞しての備忘録
ギャルリー東京ユマニテにて、2023年10月10日~28日。
岡本敦生が絵を描くことを想定して様々な形に切り出した白御影石に、野田裕示がアクリル絵具で絵画を描いた合作「Collaboration 2023 O&N」シリーズ10点を展観。
壁に懸けられた《Collaboration 2023 O&N-3》(440mm×243mm×264mm)は、横から見ると"J"を逆さにしたような形態の石彫である。壁に接着された部分が頂部で彎曲し、壁から浮き出て展示空間にだらりと垂れる。石のざらつきや肉厚のヴォリュームと表面に彩色された朱色とが相俟って、舌のようだ。朱の面には縦の罫線が引かれ、丸や三角を始め記号が規則的に描き込まれ、象形文字による古文書の観を呈する。言語(tongue/langue)のイメージは本作が舌(tongue/langue)であることを裏付ける。
《Collaboration 2023 O&N-3》のすぐ手前の床には、矩形に近い形状の石板《Collaboration 2023 O&N-4》(80mm×750mm×540mm)が横たわる。表面のほとんどは中縹で塗り込められ、乳白色の"V"や"Y"などの形が鏤められている。暗い青を宵闇ないし水面に、"V"や"Y"を松葉ないし雨滴と見、併せて《Collaboration 2023 O&N-3》の中空に浮かぶ舌を霊の語りと捉えれば、謡曲『松風』の見立てと解することも不可能ではあるまい。
(略)場面は摂津須磨の海岸。月光皓然。時は秋。ワキの旅僧が登場し、他界して久しいふたりの海女姉妹、松風と村雨の墓標の松に遭って誦経する。そこにふたりの海女の亡霊が姿を現じて、生前の如く汐を汲む。姉妹は、昔、流離の貴人行平に愛された日の憶い出を語る。松風は非情の松にいまは亡き行平の姿を幻視して狂乱の体で舞う。するうちに夜が白む。霊の姿忽然となく、旅僧はその耳に松風の音のみ聞くばかり。「夢も跡なく夜も明けて、村雨と聞きしもけさ見れば、松風ばかりや残るらん」。物語は説話論的には、ふたりの海女の悲恋物語を語り手となって旅僧が語るミーズ・アン・アビーム(入れ子筥)の構造になっていて、ということはふたりの海女のすることなすことはつまりこの旅僧がみた夢なのである。「夢も跡なく」とあるごとし。そしてこの旅僧の夢の中で何が行われたかといえば、それは端的に〈浄化〉である。そこでは塩が海女の生計手段というのを口実に登場してきて、〈浄化〉するものとしての普遍的な象徴価値を発揮するのである。ふたりの海女が演じる〈浄化〉の劇は、旅僧の集合無意識が彼の夢へと送りとどけてくれた元型的イメージということなのだろう。こうして秋、夕暮という閾域を超えて旅僧が入り込んだサブリミナル(閾域下)の夢の宇宙で、魂の〈通過〉の儀礼が行われていく。朝がくる。すると一夜の夢に浄められて旅僧は、また旅に発っていくのである。(高山宏『新編 黒に染める 本朝ピクチャレスク事始め』ありな書房/1997/p.145-149)
《Collaboration 2023 O&N-3》と《Collaboration 2023 O&N-4》からやや離れた位置に置かれた黒い四角錐台に近い形態の《Collaboration 2023 O&N-12》(140mm×160mm×100mm)を、須磨を訪れる墨染めの袖の旅僧と解することも可能となる。その際、旅僧は、鑑賞者のアヴァターでもあろう。
能の見方は一変すべきだったのだ。アントナン・アルトーがその『演劇とその分身』(1938)に、あまりにも有名になった次の一文を盛りこんだ時に。
演劇の原理と錬金術のそれとの間には、本質における神秘的な通底性がある。その象徴を通して錬金術が、ただ現実の事象の次元でのみ働く機能に対しての霊的なドゥーブル(分身)であるように、演劇もまた、演劇が徐々にその単なる無気力な模写に化しつつある直接的日常的な現実のでなく、もうひとつの元型的で危険に満ちた現実のドゥーブル(分身)であるものと考えられなくてはならない。その原理たるや、まるで海豚たちのように、一度その頭を垣間みせてもたちまちに深みの闇へと再び姿をかくしてしまうような、そうした現実の分身……。
悲痛な生涯をとげたこのフランスの前衛劇の理論家は、幻視的としかいいようのないその反‐演劇論を韜晦に満ちた言辞で覆いつくす。たしかなのは、われわれの「日常的な現実」の「単なる模写」と化したリアリズム演劇を、その「深み」に抑圧されてきた「もうひとつの元型的で危険に満ちた現実」のパワーを噴出させることで、どうしても一度破壊しつくす必要がある、というアルトーの苛烈なメッセージである。社会の「世態風俗」をいかにもらしく「活写」する体の演劇をレプリゼンテーショナルな劇というとすると、アルトーおよび彼行こうのアンチ・テアートルがめざすものは徹底して非レプリゼンテーショナルなドラマトゥルギーである。社会をより上手にレプリゼンテーション(表象/代行)しようなどという意志をこれら新しい演劇はまったく持たない。では、その舞台の上に何がのせられているかといえば、ぎりぎり精錬されつくした「象徴を通して」伝えられる人間のサイキー(心性)の運動である。筋も舞台装置も極限的にミニマムにしておいて、その分だけ象徴的表現を存分に活性化させることで、一挙に宇宙的な広がりを包みこんでしまおうというのだが、するとこうした象徴演劇への革命が、文句なくそうしたタイプの演劇である能に目を向ける人々を生みだしたとしても、これは十分に納得のいくことではないだろうか。(高山宏『新編 黒に染める 本朝ピクチャレスク事始め』ありな書房/1997/p.143-144)
半円に方形が連続した形の石板2枚のうち1枚をもう1枚の脇に差し挟むことで自立させた《Collaboration 2023 O&N-6》(700mm×1280mm×670mm)の様々な角度からの眺めを想定した絵画、3つの断片を接合させているために接合面の絵画を見ることができない壁懸けの絵画《Collaboration 2023 O&N-7》(100mm×150mm×160mm)などが目指すのは、その絵画の記号的なモティーフから判断すれば、「もうひとつの元型的で危険に満ちた現実のドゥーブル(分身)」であるかもしれない。「象徴的表現を存分に活性化させることで、一挙に宇宙的な広がりを包みこんでしまおう」との意図である。
「演劇は祭祀に始まった。言葉を古代の威厳へと引きつけないかぎり、演劇は二度とその偉大さをかちとれないのである」といったイェイツが、能に耽溺するのは時間の問題だった〔引用者註:ウィリアム・バトラー・イェイツは1916年に謡曲『鷹の井戸にて』を発表〕。こういう芝居においてこそ、「広大な情念、過去の時の曖昧、そして夢見の境界に出没するあらゆる怪物をわれわれに思いださせるリズム、平衡、パターン、象徴をわれわれは召喚することができるのだ」といったイェイツが、幽明分かつ閾域に生起する現象にもっぱらかかわるユング集合無意識心理学を同じ洞察を深いところで分かちあったからといって、もはやだれも驚きはしない。(高山宏『新編 黒に染める 本朝ピクチャレスク事始め』ありな書房/1997/p.143-144)
イメージに表わされたヒエログリフのようなシンボル、一覧性を排してイメージ鑑賞のために回り込む必要が生む時間軸の導入、作品内へのイメージの埋め込みによる幽明の境界の演出。「Collaboration 2023 O&N」シリーズは、能の象徴的構造を組み込んだインスタレーションと言えるのではないか。