可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『長船恒利 在るもの』

展覧会『長船恒利 在るもの』を鑑賞しての備忘録
Kanzan Galleryにて、2023年12月23日~2024年1月28日。

静岡県藤枝市を拠点とした写真家・長船恒利(1943-2009)の「在るもの」シリーズから、1991年に刊行した写真集「在るもの」に掲載された全23点を紹介する企画(キュレーションは、菊田樹子)。1978年から1986年に静岡県藤枝市静岡市島田市菊川市)で撮影された風景が並ぶ。

本展(及び写真集)のメインヴィジュアルに採用されている《島田 1986》[01]は、コンクリート擁壁の緩やかに凹凸のある斜面を真っ直ぐに横断する金網フェンスが横断する光景を捉えた作品。擁壁(画面)右下に直角三角形の長辺のように排水溝が切るが、未舗装の砂利の地面には排水溝は無い。擁壁の背後には僅かに工場か何かの構造物が除く。画面の左上から右中段にかけて2本のワイヤーが延びる。その2本は画面中央近くの金網フェンスの支柱と胴縁との交点で丁度交わるように見える。だが実際にはワイヤーとフェンスとの間に距離があり、両者が交わることはない。無論、この交点は、仮に撮影者と同じ位置に立ち、同じようにカメラを構えれば撮影可能なものであろう。その意味では客観的である。だが、名勝・旧跡のような撮影スポットであればまだしも、日常的な風景の中で何処を何時どのように切り取るかは、ほとんど無限とも言える可能性に開かれている。その意味で撮影者の選択は恣意的なものに過ぎない。客観的に存在する光景は、主観的な存在とも言える。
《清水 1978》[02]は、建物、信号機、電柱、石碑、鳥居などに囲まれた歩道を手前に車道を挟んで向かいの建物群を遠景に捉えた作品。建物の壁を走るパイプ、階段と波板の屋根、電線、横断歩道など、画面に走る線が錯綜する。無秩序な世界を支えるように、画面右端に太いコンクリート製の鳥居(?)の円柱が配されている。ゴルフ練習場の駐車場を捉えた《藤枝 1978》[13]におけるネットを支える柱や、《島田1985》[20]の野球場の照明を支える構造物なども、作品世界を支える柱のように見える。
《清水 1978》[02]・《藤枝 1978》[13]・《島田1985》[20]の柱ほど強固な存在ではないが、《藤枝 1978》[03]の画面左から右奥へ向かってカーブする道にある瓦屋根の古い商店を捉えた作品でも、電柱が世界を支える柱のように立つ。カーブの向こうに走り去る車が残像として映り込むことで、画面奥への吸引力が働く。古い商家は先へ先へと進む社会の変化に呑み込まれようとしている。
《焼津 1986》[23]は展望施設からであろうか、鉄の構造物越しに遠くの山々を捉えた作品である。山容は霞み、画面の中心は飽くまでも鉄製の枠である。ここにも現実世界を、あるいは作品世界を支える何かを求める作家の姿勢がはっきりと打ち出されている。力強い鉄枠に対する信頼は、同時に、山岳が象徴する自然の営みに比して人間の社会の儚さを訴えるようであり、さらには、茫漠とした山嶺により全てが仮象であるとの諦念を表わすようでもある。