可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 棚田康司個展『入って飛ぶ』

展覧会『棚田康司「入って飛ぶ」』を鑑賞しての備忘録
ミヅマアートギャラリーにて、2024年1月17日~2月17日。

縄跳びする人物をモティーフとした楠の一木造り《地上を取り込むように》と《宙を取り込むように》を中心とする、棚田康司の個展。

《地上を取り込むように》(1760mm×462mm×480mm)は、白いパンツだけを履いた、マッシュルームヘアの中性的な容貌・体型をした人物が、会場の床に拡げられた白く長いロープを手に佇む像。揃えた脚はやや曲げられ、急傾斜の台座に足の裏が接着されている。人物は跳躍し、ロープの輪の中に「入って飛ぶ」、縄跳び遊びの形象である。同時に、縄は、縄張りという言葉がある通り、土地の支配権を象徴する。それが「地上を取り込むように」という題名の由来でもあるだろう。縄張りの拡大は、寄らば大樹の蔭と、人を惹き付け、更なる領域拡大へとその内部にある人々の欲望を駆り立てる。
展覧会タイトルの「入って飛ぶ」に、芭蕉の古池の句を連想するのは私だけではあるまい。

 古池の句は今まで「古池に蛙が飛びこんで水の音がした」と解釈されてきた。だがそんな気の抜けた句ではない。それでは何のおもしろみもないばかりか、そもそもなぜ蕉風開眼の一句とされるのかがわからない。
 では古池の句はどういう句なのか。「蛙が水に飛び込む音を聞いて心の中に古池の面影が広がった」という句である。蛙が水に飛びこむ音を 芭蕉が聞いたのは現実の世界のできごと。それに対して古池は蕉風の想像力が出現させた幻影つまり心の世界のできごとである。芭蕉は現実の音を聞いて古池という心の世界を開いた。
 (略)
 蛙が水に飛び込む音を聴いて心の中に古池の幻影が浮かぶ。古池の句をそう解釈する理由はいくつかある。その1つは「古池や」の「や」である。「や」は「かな」「けり」とともに代表的な切字の1つである。切字は文字どおりそこで句を切る。この切字「や」によってこの句は「古池や」でいったん切れる。とするとこの句は従来の解釈のように「古池に」蛙が飛びこんでと安易に解すわけにはいかないだろう。蛙はたしかに水に飛びこんだのだが、その水がただちに古池の水であるとはいえないからである。
 ではこの古池はいったい何なのか、どこにあるのか。それを解く手がかりが弟子の支考(1665-1731)の書いた『葛の松原』という文章にある。冒頭、古池の句の誕生したいきさつが記してある。
 (略)
 誰でもこの句は言葉の順番どおりまず「古池や」、次いで「蛙飛びこむ水のおと」と詠まれたと思っているだろう。この思い込みこそ「古池に蛙が飛びこんで水の音がした
という従来の解釈の温床となってきたものである。しかし支考の『葛の松原』にはそうではなく。芭蕉はまず「蛙飛びこむ水の音」と読み、そのあと「古池や」と置いたと書いてある。
 さらに『葛の松原』から読み取れるのは、芭蕉も其角もその場にいた人は誰も見ずに飛びこむ蛙を見ていない、まして古池など見ていないということである。蛙が水に飛びこむ音を聞いただけなのだ。(略)
 ではなぜ芭蕉は「古池や」と置いたのか。その古池はどこにあったのか。その手がかりも『葛の松原』にある。まず「蛙飛びこむ水のおと」と詠んだ芭蕉は上に何と置くかしばらく考えた。そのとき其角が「山吹や」がいいのではと提案したのだが、芭蕉はそれを採用せず「古池や」と置いたと書いてある。
 これを読めば「蛙飛びこむ水のおと」の上に何と置くか考えるうち、芭蕉の心に古池が浮かんだということになる。古池の句の古池とは現実のどこかにあったのではなく芭蕉の心に浮かんだ古池ということになるだろう。古池の句の「蛙飛び込む水のおと」は現実の音だが、古池は心に浮かんだ幻影なのだ。(長谷川櫂『和の思想 日本人の創造力』岩波書店岩波現代文庫〕/2022/p.81-84)

女性像のレリーフ《月に望む》が、月を、それを眺める女性の姿に反転させて表現しているように、作品には反転の発想が顕著である。バドミントンのシャトルのコルク部分が人の頭になった、銀色に輝くてるてる坊主のような《光か弾か》(673mm×215mm×235mm)が会場の天井から吊されている。ミサイル(シャトル)を明日への希望(てるてる坊主)へと反転する願いである。遠くでミサイルが落とされる情報に接して、領土を巡る負の連鎖をいかに断ち切るかに思いを馳せるのが、《地上を取り込むように》と知れる。ロープの形が像を中心に(歪ではあるが)∞に配しているのは、縄張りの拡大を極限(∞)に及ぼせば全てが領域の中に収まるとの希望の表現であった。《地上を取り込むように》と同様の人物が縄跳びをする《宙を取り込むように》(1820mm×640mm×680mm)もまた、大地に縛られた存在が領土に執着してしまう思考に遊び(余白)を取り込もうとする意図が察せられる。現実ではなく、心に浮かぶ領域――あるいは宇宙――は、無限に等しい。《地上を取り込むように》や《宙を取り込むように》の台座の傾斜は、無限への微分の表象だ。