可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『夜明けのすべて』

映画『夜明けのすべて』を鑑賞しての備忘録
2024年製作の日本映画。
119分。
監督は、三宅唱
原作は、瀬尾まいこの小説『夜明けのすべて』。
脚本は、和田清人三宅唱
撮影は、月永雄太。
照明は、秋山恵二郎。
録音は、川井崇満。
美術は、禪洲幸久。
装飾は、高木理己。
衣装は、篠塚奈美。
ヘアメイクは、望月志穂美。
編集は、大川景子。
音楽は、Hi'Spec。
音響効果は、岡瀬晶彦。

 

駅前にあるバスターミナル。スーツ姿の藤沢美紗(上白石萌音)がベンチに横になり雨に打たれるがままになっている。足下にはバッグが落ちていた。眩暈のために身動きが取れない美紗は、やって来たバスに乗り込むことができない。駆け付けた2人組の警察官が美紗を気遣うが、美紗は興奮してバッグの中身を次々と放り投げる。
 私は周囲にどういう人間と思われたいのだろうか。真面目で誠実、それはどこか違うし、明朗快活でもない。気が利いて優しい、はいいと思うけど、そればかりでもない。仕事ができると評価されたい訳でも、地位や名誉が欲しい訳でもない。それでも、どう振る舞えばいいのか一々悩んでしまう。25日から30日に一度、生理の日やその2、3日前、どうしようもなく苛立ってしまう。生理が始まる前から精神的に不安定になったり、頭痛や眩暈に悩まされたりするのはよくあることだけど、その症状がひどいと月経前症候群PMS(premenstrual syndrome)と診断される。私もそうだ。不安で眠れなくなる人や無気力になる人、悲観的になる人。PMSには様々な症状があるらしいけど、私の場合、かっと血が上って攻撃的になってしまう。周りが見えなくなり、怒りを爆発させてしまう。高3の時、母親に婦人科に連れて行かれた。処方された漢方薬に効き目はほとんど無かった。社会人になって一人暮らしを始めてからも母親からあれこれと連絡があった。母親には迷惑をかけるものなのよって。気持ちは分かるけど、正直しんどかった。
警察署に保護された美紗を母親・倫子(りょう)が迎えに来た。美紗が所持品の返却を受け、確認書に署名する。倫子は身元引受人の書類にサインを求められ、手にしたペンを落としてしまう。ご迷惑をおかけしました。美紗と倫子が頭を下げて警察署を出る。降りしきる雨の中、1着のコートを被って2人は警察署から駆け出す。
雨の夜の街を車が走り抜ける。
美紗が心療内科を訪ねる。おはようございます。久しぶりだな、藤沢さん。また何かやっちゃった? 職場で上司に。環境変わるとストレス溜まるからね。警察のお世話にも。上司に通報されたんじゃなくて、眩暈がして休んでいたら声を掛けられたんです。最近、落ち着いてきてたのにね。先生、ピル飲みたいです。お母さんに血栓症の既往があるからね。漢方は飲んでるの? …どうしようかな、まあ、試しに別の薬を出しておこうか。アルプラゾラムは眠くなるから気を付けてね。
美紗の職場。美紗は直属の上司とともに部長のデスクの前に立っている。指示出しがおかしいと上司に食ってかかり、コピーはお断りしますと啖呵を切る美紗の動画を部長が確認するのを待っていた。昨日は体調が悪く、失礼なことを言ってしまい申し訳ありません。美紗が頭を下げると、上司もこちらこそと謝る。
勤務も2年目、もはや漢方薬ハーブティーで凌ぐ状況ではないと自分の机に戻った美紗は医師に処方されたばかりのアルプラゾラムを服用する。
会議室で1人、テーブルや椅子、資料の配付を行っていると、美紗はアルプラゾラムの副作用によりとんでもない眠気を感じた。
上司や会議のメンバーが入ってきて、全く準備が整っていないのに驚いていると、椅子に坐ったまま寝ていた美紗がようやく目を覚ます。事態を把握し動顚した美紗は上司が呼び止めるのも構わず会議室を飛び出し、トイレに駆け込む。
美紗の退職届はあっさり受理された。

 

藤沢美紗(上白石萌音)は、高3の時、月経前症候群PMS(premenstrual syndrome)と診断された。生理が近付くと精神が不安定になり、攻撃的になって怒りを爆発させてしまう。何とか入社2年目を迎えた美沙だったが、ある日上司にコピーの指示が悪いと激昂し、帰宅中眩暈がして雨の中バス停で横になり警察に保護された。何とかしなくてはと掛かり付けの心療内科医を訪れた美沙は漢方薬以外の薬を求め、パニック障害の治療薬アルプラゾラムを処方してもらう。早速服用した美沙は、副作用により勤務中に眠りに落ちてしまう。動顚した美沙が提出した退職届は、何の慰留も無く受理された。大学時代の友人・岩田真奈美(藤間爽子)とヨガに通ったり占い師に観てもらったりしつつ仕事を探し、城南地区にある、子供向けの顕微鏡や工作キットの製造・販売会社「栗田科学」に雇い入れてもらうことに。栗田科学は、社長・栗田和夫(光石研)の祖父が戦前創業した家族企業で、経理担当の住川雅代(久保田磨希)、営業担当の平西謙介(足立智充)、技術職の鈴木譲(大津慎伍)・鮫島博(矢崎まなぶ)・猫田欣一(中村シユン)が和気藹々と働いていた。美沙が職場にすっかり馴染んだ頃、山添孝俊(松村北斗)が入社した。山添は他の社員と馴染もうとせず、空気を読まず単独行動を重ねる。美沙は山添が頻繁に飲む炭酸水のキャップを開ける音に激昂してしまう。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

美紗は、月経前症候群(PMS)を抱えている。栗田科学で社員たちに頻繁に茶菓子を買うなど、気遣いを見せるのは、どういう人間と思われたいのだろうかと過剰に考えてしまうストレスが美沙に精神的問題を生じさせていることを暗示する。仕事ができると評価されたい訳でも、地位や名誉が欲しい訳でもないと周囲への配慮を名誉や出世の欲求と結び付けたくない(あるいは、そう思われたくない)という意識もストレスを増幅させていそうだ。月の満ち欠けのように定期的に繰り返されるPMSによる激昂は、抱えきれなくなったものを発散する安全装置なのかもしれない。
美沙から傍若無人に見えた新入社員の山添は、パニック障害だった。美沙は心療内科アルプラゾラムを処方してもらっていたため、山添の落としたPTP包装シートで彼がパニック障害であることに気が付いた。美沙が山添にPMSだと告げると、PMSと一緒にするなと言われてしまう。病気にもランクがあるってことか、PMSをまだまだねと吐露する。
山添はお節介な美沙を面倒な人物と見ていたが、掛かり付けの精神科医・坪井絵里子(内田慈)にPMSについて尋ね、関連書を借り受ける。自分のことはどうにもならなくても、美沙のPMSの症状の兆候を把握して改善できると、いつしか山添は美沙よろしく他人の世話を焼く存在に変貌していく。
山添は大手企業の社員だったが、パニック障害を発症して離職し、上司の辻本憲彦(渋川清彦)の紹介で元の職場に復帰するまでのつもりで栗田科学で働き始めた。辻本は5年前に姉を自死で失い、グリーフケアのためのサークルで、20年前に弟を亡くした栗田社長と知り合ったのが縁だった。
美沙と山添は栗田科学の恒例ヴェント「移動プラネタリウム」での解説を任される。山添は栗田社長の弟がかつて行った解説の音声テープを文字に起こし、美沙とともに推敲していく。
山添がカセットテープを再生すると、社長の弟が20年以上前に録音した声が聞こえてくる。その声は、地球との距離を移動する時間だけ昔のものである星の光に擬えられる。過去の光が今に届くように、死者の声もまた今に伝わる。
社長の弟は、太陽が西に沈むと言うが、太陽が動いているのではない、地球が動いているのだと説明する。見かけの動きと実際の動きとは異なる。美沙がプラネタリウムで解説するように、人々を誘う不動の北極星でさえ1万2千年後にはこぐま座ポラリスからこと座のベガに変わってしまうのだ。
自死を選んだ者たちは、ひょっとしたら動かない現実に絶望したのかもしれない。もし見方を変えて、不動と思えるものでも実は移り変わっていくことに気が付いていれば、違った展開もあり得たのではないか。変化とは希望になりうるのではないか。
最初に映し出されるのは、雨の落ちるアスファルトだ。それは、美沙が下を向いていることを示している。紆余曲折を経て、美沙は空を見上げることになる。その過程が、美沙と山添は職場の帰りに通るトンネルによって象徴される。それぞれがPMSパニック障害を抱え、闇の中にいる。もっともトンネルは短く、すぐに尽きるだろう。
イギリスの諺に、夜明け前が一番昏いとあるらしい。その闇の先に、新しい夜明けがやって来る。