可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 古原汐理個展『声なき祈り』

展覧会『古原汐理「声なき祈り」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリーそうめい堂にて、2024年2月3日~17日。

岩手県で過した幼少期の経験や言い伝えに着想を得た版画18点で構成される、古原汐理の個展。

《故郷の花》(345mm×280mm)には、頭部から2本の角が突き出た、色取り取りの布を継ぎ合わせた覆面のようなもので頭部を覆った女性が、手向けられた水仙の花に前にする様子を表わした作品。水仙の置かれた台、女性の身体、そして木目を活かした背景はいずれもくすんだ淡い藍色によるモノトーンで表わされ、水仙と色鮮やかな「覆面」が映える。古代の東北において鬼とされ滅ぼされた存在を慰撫せんとする、声なき存在に対する祈りの形象化であると言う。
《故郷の花》の「覆面」を作る色取り取りの布は、布を奉納する習わしに基づくもので、《森の中の小さなお社》(280mm×350mm)、《あそぼうよ》(223mm×265mm)、《あそぼうよⅡ》(150mm×150mm)、《ねぇ起きて》(145mm×190mm)では、素足だけを覗かせた種々の短冊のような布切れを被った丸っこい存在が仔猫とともに表わされている。布は死者との繋がりを結ぶものであり、不可視の存在を可視化させる。仔猫は生者のアヴァターとして画面に描き入れられているのであろう。のみならず、死者の存在が五感では感知し得ないこと、或いは感知する感覚を人が失っていることを表わすようである。
《視線》(267mm×387mm)では、死者の上半身の黒い影の目の辺りから物干しの紐が延び、恰も万国旗のように布が下げられている。死者との繋がりを示す奉納布とはすなわち死者からの眼差しの意識である。それはお天道様が見ている類の視線の遍在を介し自律観念を呼び起こすことになる。このような観念もまた失われ、巷には機械の眼(監視カメラ)が溢れてしまった。
《あなたが帰ってくるのなら》(190mm×145mm) には、死者を表わす影と、それに重なる旗を持つ手とが描かれている。死者の名前を呼び旗を振ることで、死者との再会を願う。絵画には、その願いを叶える機能もある。供養絵額である。

 岩手県の遠野地方ではかつて、故人となった先祖たちが集まって生前と同じ姿で談笑している様子を描いて寺に奉納する風習が行われていた。西来院以外にもたくさんの供養絵額が残されている。そこにあるのは、生前に実現できなかった願望を成就した幸せな死者たちの姿である。
 人々は皆満ち足りた表情をしている。愛おしく抱きしめる余裕もないままにこの世を去った赤ん坊に、乳を与える母親がいる。子を授からないうちに逝去した女性が、あの世では子供と戯れている。生前と同じ姿で帳簿をつけている商人がいる。猫と遊ぶ少女がいる。百年の時を経ても変わることのない鮮やかな紅や群青は、時の流れに逆らって、切り取られた幸福な一瞬を永遠に引き止めようとしているかのようである。
 絵額を奉納した遺族は折々に寺を訪れては、故人が懐かしい人々と再会して、幸せな時間を満喫している様子を確認した。そして、いずれは自身もその幸せな人々の輪に加わることに思いを馳せながら、しばし死者たちとの穏やかな時間を共有したのである。(佐藤弘夫『日本人と神』講談社講談社現代新書〕/2021/p.213-214)

また、版画は、版木に彫られたイメージを紙に写すことで得られる。版木が幽冥界であり、紙は文字通り現世(「うつし」よ)であるとの意識が、作家に存在するようだ。お手玉をする童女(座敷童)を描いた《ひとつふたつ》(346mm×282mm)では注連縄により現世と常世との境が表現されているのは、その証左である。
百万遍念仏をテーマにした《念仏考》(375mm×475mm)における宙に浮く数珠や西方浄土の茜色、川面の影に死者を感じた経験を作品化した《瞳の中の幽霊》(357mm×290mm)における白い布と身体に重ねる手のイメージや木目を活かした波の表現など、作品のテーマはもとより、それを表現するための構成・技法も興味深い。