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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 野村在個展『君の存在は消えない、だから大丈夫』(第17回 shiseido art egg 第2期)

展覧会『第17回 shiseido art egg 第2期 野村在「君の存在は消えない、だから大丈夫」』を鑑賞しての備忘録
資生堂ギャラリーにて、2024年3月12日~4月14日。

人間の存在とイメージについて、メディアやテクノロジーとの関わりから探究する、野村在の個展。

《Untitled(君の存在は消えない、だから大丈夫)》は、天井に設置された穿孔テープ打刻器が心拍のリズムで打刻する1人分のDNAデータの紙テープが山のように床に溜まっていくのを見せるインスタレーション。全て完了すると紙テープは1万2千kmに達するという。壁面にはプロジェクターで全体の何%の打刻が終了したかが表示される。
「バイオフォトンはかくも輝く」シリーズ5点は、肖像写真を暗室で燃やした際に生じる炎を長時間露光で撮影した写真。ガラスにUVピグメント印刷で固着されている。例えば《バイオフォトンはかくも輝く(満面の笑顔のキャプテン・トム、1999)》は、炎というより、硫酸銅水溶液にアンモニア水を加えていったような淡い青の水に濃い青い液体が現われるイメージとなっている。
「ギフト」シリーズ」3点は壁面に設置されたガラスケースに「誰にも読まれなかった手紙」の文面が点字によって表わされたもの。
《ファントーム》は水に印刷する装置で、印刷するのは故人の写真のみに限定されている。
《寒椿》はインスタントカメラで撮影された街角の椿の写真を紫外線ライトを当てて展示した作品。

作家の祖父は妹の死を悔やんで戦地に赴いた。復員した祖父は婚約者を失い、別の女性と結ばれることになった。作家は叔祖母が亡くならなければ自らが存在ていなかったことに思い至る。

若い学生服姿の祖父と、白いドレスの愛らしい彼の妹の写真。
その妹は、その写真を撮影した数日後に亡くなってしまった。

私はずっとその写真を持っていた。
そしてよく考えた。
もしこの美しい少女が死ななければ、
私は今存在していないんじゃないか、と。
この写真が、これこそが私の存在証明なのか、と。

80年以上保管されてきたその写真を、そうして私は燃やした。
その炎の光を撮影した。
現像されたネガを見た時、失った辛さよりも、肉体からも紙からも解放されたその光の塊に、私は圧倒された。
消えてしまった彼らの写真は、むしろ私の目の奥に焼き付いて、しかも私の存在は消えていなかった
これでいい、と思った。

そうやって消えていった人たちを光に戻していった。
届かなかった手紙も影になってここにあり
毎日の愛おしい思い出は、白く薄くなっていく。

でも、これでいい。

君が消えて、それを覚えている僕も消えて、100年後にはそのことを覚えている人すらいなくなっても、君の存在は決して消えない、だから大丈夫。

巷には監視カメラが溢れ、リトルブラザーズたちはスマートフォンを携えて撮影に余念が無い。プラットフォーマーがあらゆるデータを収集する。記憶より記録の時代である。写真を燃やす作家は、そのような時代に抗うかのようである。
尤も表題作とも言える《Untitled(君の存在は消えない、だから大丈夫)》でDNAが扱われていることに着目すると、写真を燃やすことの別の意義が浮上してくる。DNAはそのままコピーされるのではなく雌雄の配偶子が接合してDNAが交換されることにより、両親とは異なる唯一無二の子孫が発生する。それは有性生殖だからこそ可能となる。

 ④「有性生殖の代償」は「死」というテーゼは、核心を突いていると思います。生物は生きているから死ぬのではなく、むしろ生むようになっているから死ぬと見るべきだからです。ちなみに、これは原罪に関係します。原罪とは何かについては、古代から論争があり、それは知識欲であるとか自由意志であるとか性的欲求であるとか語られてきました。しかし、原罪という概念を現代化するには、原罪の罰として設定されている死のほうから、逆算して考える必要がある。死ぬということが罰になるような、そのような罪とは何かと問い返す必要がある。そうすると、セクシュアリティとは区別される有性生殖という生殖様式そのものが原罪に相当することになる。こう解することで、古代からのキリスト教神学は、一挙に現代的意義を帯びます。(小泉義之『弔い・生殖・病いの哲学 小泉義之前期哲学集成』月曜社/2023/p.120)

有性生殖において生命は「生むようになっているから死ぬ」のである。写真が燃やされるのは、有性生殖の代償に倣ってのことであろう。
出展されているのは、いずれもテクノロジーを用いた記録であるが、それはいずれも特定の存在についてのコピーである。すなわち展示作品は無性生殖のメタファーである。展示作品(≒コピー)の否定により、存在の掛け替えの無さすなわち有性生殖の意義が鮮明になる。