可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 齋藤りえ個展『2020~2024』

展覧会『齋藤りえ「2020~2024」』を鑑賞しての備忘録
ギャルリー東京ユマニテbisにて、2024年3月18日~23日。

物語の一場面あるいは漫画の扉絵を思わせる、ノスタルジックな雰囲気を醸すイメージの銅版画(エッチング)で構成される、齋藤りえの個展。

《ある程度の距離》(250mm×175mm)には、テーブルでラップトップに向かう父親と、カウチで横になってスマートフォンを見る母親とがいる板張りの床の居間に、娘の小学生がランドセルを背負って帰宅した場面が描かれる。窓はあるものの陽差しは入らない部屋は薄暗い。娘の足下はやや明るく、暗い部屋へとまさに入ろうとしている。だが脇に本を積んでラップトップに向かう父親は執筆に集中しているのか背中を向けたままで、母親はスマートフォンの画面に夢中になっており、2人とも娘に見向きもしない。
《どうぶつのひみつ》(850mm×630mm)は、森の中で熊や狐に遭遇した少年の姿を描いた作品。森の中に開けた場所があり、そこに巨大な熊と狐が後ろ肢で人間のように立っている。周囲には四本足で歩く小さな熊や狐の姿もある。犬を連れた少年は巨大な獣の立ち姿に圧倒されながら木陰に隠れ様子を窺っている。森の獣たちと少年との間には結界のような灌木の茂みがある。
2画面の《2020/-/--午前4時--分》(各590mm×410mm)は、針葉樹林の手前に広がる草原に佇む群像を描く。向かって左側の画面には、ワンピースを着た肩まである髪の少女と、その背後にクマのぬいぐるみを手にした幼女が佇み、やや離れた位置にヴェールを被りスカートの長い裾を引き摺る黒ずくめの女性の姿がある。向かって右側の画面には、ワンピースを着たショートカットの少女とその背後に杖を突いた老人がいて、やや離れた位置に帽子を被りスーツを身につけた黒ずくめの男性が立っている。午前4時にしては明るい。夏の満月の夜だろうか。夏至祭のようなイヴェントが行われるのかもしれない。線対称のようにモティーフが配されていることから、2枚の画面は鏡像のようである。
《ニンゲンの条件》(850mm×630mm)には、水辺に倒れた男女と、ヴェールを被った黒ずくめの女性が赤子を抱いて立ち去る姿が描かれる。水面からは何本も枯れ木が覗いていることから、何らかの理由で水が溢れたようだ。一帯は何もない平地のため、さらに浸水が続く可能性もあるだろう。空には2羽の鸛が舞う。
《不幸ぶれるほど立派でもない》(130mm×90mm)には、小さな花がプリントされたワンピースを着た少女のみが描かれる。少女は能の女面を被っている。

全ての作品に共通するのは、境界である。《ある程度の距離》においては室内と室外とがあり、また父・母それぞれが自己の世界に沈潜しており、そこの娘が侵入する。《どうぶつのひみつ》では森の中に灌木の茂みよって隔てられた別世界があり、獣たちが人間のように振る舞う姿を窃視する少年は結界の手前に留まる。《2020/-/--午前4時--分》においては森と草原という2つの世界が描かれる。仮に夏至であるなら、日の出から日没までの時間がこの日を境に短くなっていく、やはり端境である。《ニンゲンの条件》では浜――水と陸との境界――が描かれ、それは生死の境界でもあるだろう。実際、倒れた男女が死を、赤子が生を象徴している。《不幸ぶれるほど立派でもない》では少女の被る能面が、例えば夢幻能における幽霊(死者)が旅人(生者)に語る構成が想起され、やはり生死の境界が表わされていると言える。
リュック・ベッソン(Luc Besson)監督の映画『DOGMAN ドッグマン(Dogman)』(2023)では主人公ダグラスは孤児院で演劇講師サルマからシェイクスピアの世界に誘われる。サルマはダグラスに鏡に映る姿こそ真実で私たちが鏡像のコピーに過ぎないと、悲惨な境遇を舞台の世界で反転させる、生きる知恵を授けた。
作家は、『DOGMAN ドッグマン』で描かれるような演劇の鏡像関係を、版によりイメージが得られる銅版画に見ているのだろう。そしてイメージに表わされた物語が現実を変える可能性に賭けている。それが境界に執着する理由であろう。