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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『BankART Under 35 2021 第3期』(菅実花個展)

展覧会『BankART Under 35 2021 第3期』(菅実花個展)を鑑賞しての備忘録
BankART KAIKOにて、2021年6月4日~20日

BankART Under 35 2021」は、7名の作家を個展形式で紹介するシリーズ企画。第3期は諫山元貴と菅実花を取り上げている。

菅実花の個展は、「スペクトラ(Spectra)」シリーズの写真(「Calla」シリーズ)や立体作品(「注意深く見るための機械」シリーズと《実像のプリズム》)、「あなたを離さない(I Won't Let You Go)」シリーズの写真(「Untitled」シリーズ、《#selfiewithme》、《Hyper Fake 0001》)と「Untitled」シリーズの制作過程を記録した映像作品(インスタレーションとして展示)、「ラブドールは胎児の夢を見るか?(Do Lovedolls Dream of Babies?)」シリーズの写真(「The Silent Woman」シリーズ)で構成されている。

「Calla」と題された写真のシリーズ(2021)は、白いカラー(Calla lily)の造花に、赤と緑、黄と青など、左右から異なる色の光を当てて、特殊なフィルターなどを用いて撮影し、大画面にプリントしたもの(5点)。闇の中に艶やかな花が浮かび上がる。造花の中には1輪だけ生花が紛れ込んでいるという。端のギザギザや化学繊維の織り目で造花であることが明白なものもあるが、生花がどれかの判別は難しい。そもそも造花・生花が混ざっていると指摘されなければ、全て生花と見てしまうだろう。その上、花だと思って見ているものは実は「仏炎苞」という萼であり、萼に包まれた花(肉穂花序)はわずかに姿を覗かせるのみなのだ。

《実像のプリズム》(2021)は、箱の中に凹面鏡を向かい合わせに設置し、それらの内側に置かれたプリズムが、箱に開けられた穴の部分に浮き上がるのを見せる作品。

 彼〔引用者註:ファンタズマゴリアの最初のスペクタクルを生み出したエチエンヌ=ガスパール・ロベール、通称ロベールソン(1763-1837)〕は観衆とのコミュニケーションにおいて、躊躇することなく《降霊術によって招魂する》自らの体験を明確にして、観衆の無知や軽信につけ込もうとするペテン師や香具師から距離をおこうとした。
 そして、『回想録』の結びでは、自らの考えを次のように要約している。
 「光の諸現象を説明し、光と闇の遭遇を示しながら、物理学者は私たちを最も美しい真理の道へと再び導いてくれた(…)。しかし、このような物理学や不可解な光の諸現象は形而上学とも結びつき、私たちの思想に飽くなき疑問を投げ掛ける。それは、私たちが物質と呼んでいるものが、もはや物質ではない(…)。ロベールソンの光の見世物と関連しているが、もう一つ別の物理学、光の現象が存在すると私たちに語りかける考え方なのである。私達のアニマ(魂)を闇の世界の外に置かれた神の崇拝者は(…)。信仰の言葉が沈黙を守るとき、人知が消え去ることを許さず、万物の創造者として人間に語りかける神は、光の反射が私たちの時代を語り、知的世界のシンボル(表象)とその深淵の入り混じったイメージ(映像)が地上に存在することを望んでおられる」
 ロベールソンの見世物は彼の意図するところ、すなわちパラケルススキルヒャーの思想がニュートンガルヴァーニ、ヴォルタなどの科学思想と融合して生み出されたものであることを隠そうとはしなかった。(略)そして、見世物の観衆には現に起きていることをよく観察するように要求し、彼はとりわけ第三の眼、すなわち無の世界から到来するさまざまな映像と相互作用する心の眼で眺めるように求めたのである。
 ロベールソンが使用した機器は、回転盤の上に載せたマジックランタンであり、彼が《ガンラスコープ》という名称で特許を取得したものである。それは光源と正反対の側にいる観衆に向けて、透明のスクリーンに映像を投影する機器である。
 (略)
 ロベールソンがヒント(着想)を得た『自然魔術』の出典を指摘したいと考えているが、それはゾッティ・ミニチと同意見であるように思われる。
 「19世紀の60年代から70年代にかけて出版された、ゴッタルド・ハフナーの『興味深く、巧妙で魔術的な固有名詞学』、あるいはジル・ギュイヨーの『遊びながら学ぶ数学』のようなテキストがさまざまな方法で神秘の世界と交信する魔術師やペテン師の使用する、まぎれもない《示方書》として利用されていた。1770年のギュイヨーの記述では、亡霊の幻影は煙幕によって生命を吹き込まれ、それはロベールソンの用いるマジック・ランタンによる投映の支えになっていたということだ」
 結局、1770年にパリで編纂されたギュイヨー神父の著作の中で、煙幕によって人物像がスクリーンから飛び出すような物理的効果と、それがロベールソンの見世物を支える大きな要素となっていたことが、すでに記述されている。
 「煙幕が決して人物像をゆがめることなく、観客がそれを手でつかめると思えるほど浮き上がって見えるそのような表現効果を強調すべきである」
 1774年に出版されたW・フーパーの『合理的な再現』の中でも、亡霊を呼び覚ますための、より家庭的なシステム(方法)が紹介されている(この本の図版には次のような説明書きが添えられている。「テーブルの真ん中に置いた台座の上に、どのようにして亡霊を呼び覚ますのか」)。(ジャン・ピエロ・ブルネッタ〔川本英明〕『ヨーロッパ視覚文化史』東洋書林/2010年/p.357-360)

作家は、アイザック・ニュートンがプリズムによって分光した光の帯にラテン語で幽霊や幻影を意味する"spectrum"と名付けたことに言及しており、まさに本作品は「テーブルの真ん中に置いた台座の上に」、「亡霊を呼び覚ま」してみせたものと言える。

「あなたを離さない(I Won't Let You Go)」のシリーズは、作家が自らの頭部を型取りして作った等身大の人形とともに被写体に収まったセルフ・ポートレートカズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで(Never Let Me Go)』を捩ったタイトルによって、クローンがテーマであることが示されている。例えば、《Untitled 12》(2020)では、寝そべった「2人」がお互いが左手で相手の髪に触れ合っている。ベージュ(?)のストッキングで作られたフィルターによってセピアで曇った画面では、どちらが作家か見分けがたい。

 ピュグマリオンは、まず自らが創造物をつくりだしたあとで、今度は創造物を媒介にして新しく子孫をつくったのである。父が夫となるという一種の近親相姦的な純粋培養の過程を、創造的なかたちで描くことで、子孫をもつキュプロス王の一族の正当性と純粋性を裏づけようとしていた。単一生殖による子孫繁栄を夢見ることは、女性の子宮を「借腹」とみなして男性の血統の純粋性を守ろうとし、家系図を男性のみで語ろうとしてきた父権制社会の願望と合致する。(小野俊太郎『[改訂新版]ピュグマリオン・コンプレックス プリティ・ウーマンの系譜』小鳥遊書房/2020年/p.27)

ピュグマリオンアフロディテを欲して象牙の似姿を制作したのに対し、作家は自らと瓜二つの人形を制作した。その意味で、体細胞クローンのアナロジーと捉えることができる。

 有性生殖の大前提である遺伝子の組みあわせの変化は、子に対して、親とは違う遺伝的背景を持つ、親というオリジナルとは異なる新たなオリジナルであることを認定する。世代交代とは、親というオリジナルが消滅し、子という新たなオリジナルを作り出す過程である。だからこそこの複製は、オリジナル「非依存的」でなければならない。
 無論。これは無性生殖にも当てはまることであって、遺伝的差異という点では、分裂後に生じる2つの細胞(もしくは分裂をする多細胞個体)の間に、違いはほぼ存在しないと言ってよい。むしろ分裂が行われた後の2つの細胞(個体)を比べてみて、どちらがもとのオリジナルだったかを同定することができないため、そもそもオリジナルという存在は、細胞が分裂したその辞典で消え失せ、2つの新たなオリジナルが誕生するのであった。
 ところが、この原理的な流れが、体細胞クローンとして作られた「子」と、そのオリジナルとなった「親」との間には、全くと言っていいほど存在しない。
 もしある2つの個体が遺伝的に全く同一であるという状況があった場合、先ほどの無性生殖的分裂の例を認めるならば、その2つの個体の間で、どちらがオリジナルだったかが、後からでは判別できないという状態になることが、それをもたらした複製がオリジナル非依存的であると認定するための前提であった。
 ところが体細胞クローンの場合、この前提は成り立たないように思われる。“複製”後も、たとえどのような生殖作用が行われたにせよ、オリジナルとしての親は厳然として存在するのであって、複製産物としての子との間で、どちらがオリジナルであるかは常に判別できるはずである。親はあくまでもオリジナルとしての親である。体細胞クローン技術で誕生した子は、あくまでも「複製産物」としての子なのである。
 もちろんクローンであろうとなかろうと、子は親に対して、生物学的には完全に独立した存在である。その後のエピジェネティックな変化ならびにユニークな突然変異の蓄積により、親、すなわちオリジナルとはまた異なる生物学的運命を辿っていくのは間違いない。(武村政春『レプリカ 文化と進化の複製博物館』工作舎/2012年/p.346-347)

作家のコピーとしての人形を体細胞クローンのアナロジーと捉えた場合、人形はオリジナル依存的複製であり、複製産物となる。ところが、《#selfiewithme》(2020)に次々と映し出される作家と人形との自撮り写真のスライドショーでは、自撮りアプリによる加工によって「どちらがオリジナルだったかが、後からでは判別できないという状態」なのだ。そこでは、当然のことながら、ピュグマリオンの物語が象徴する、男性のみの父権制社会の願望など雲散霧消する。そもそも男性の存在など一切必要ないのである。

 ところが近代になって、芸術=技術をめぐる物語が中心になることで、そうした単一生殖願望は血統の問題とは切り離されていく。ピュグマリオンの力だけでは、似姿の像を変身させることができないので、人間を超えた神の力が必要なはずだったが、変化をもたらした原因が芸術の力だと解釈される。神と人間の力が転倒し、あくまでも人間が芸術=技術の担い手として重視される。近代になりピュグマリオン神話を強く読みこむことから浮かびあがってきたのは、単一生殖による血統の問題よりは、芸術家による作品創造と創造物との疎外関係や、ガラテイアを象牙の像のままで愛して生殖を拒否する「独身者の機械」という考え方である。(小野俊太郎『[改訂新版]ピュグマリオン・コンプレックス プリティ・ウーマンの系譜』小鳥遊書房/2020年/p.27-28)

「あなたを離さない(I Won't Let You Go)」シリーズのイメージが示すのは、作家と芸術=技術の力によって生み出した自らの似姿とのみで形成される世界であり、「生殖を拒否する『独身者の機械』」に比することも可能である。

 (略)そこで数ある品物のなかから、ごく小さいが念入りなつくりの懐中用の望遠鏡をとりあげ、ためしに目を当て窓からのぞいてみた。生まれてこのかた、これほどくっきりと間近に見せてくれる望遠鏡を手にしたことはなかっただろう。なにげなくスパランツァーニ教授の居間にレンズを向けた。いつものように小さなテーブルを前にして両手を組み肘を突いてオリンピアが坐っていた。――このときはじめてナタナエルは彼女の見事な顔をみた。ただ目だけは奇妙に死んだようで一点を凝視したまま動かない。しかしナタナエルがレンズごしに一心不乱にみつめていると、オリンピアの目から月光のようなやわらかい光が射しはじめていくのだった。いまはじめて視力の火がとまったかのようで、次第にその火が生きいきと燃えさかる。この世ならず美しいオリンピアの顔に見とれたまま、ナタナエルは魔法にかけられたように窓際に突っ立っていた。(E.T.A.ホフマン池内紀〕『ホフマン短篇集』岩波書店岩波文庫〕/1984年/p.186-188)

会場の一角には、「Untitled」シリーズの制作現場が再現され、作者の似姿である人形が、撮影用背景紙の上に置かれたベンチに坐っている。「一点を凝視したまま動かない」目を持つはずの人形は、左右から照射される、瞬時に次々と色を変えていく光によって、その表情を変化させる。人形を「注意深く見る」うち、鑑賞者は魔法にかけられたようになるだろう。「まわれ、まわれ、お人形さん!」