可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『Mr.ノーバディ』

映画『Mr.ノーバディ』を鑑賞しての備忘録
2020年製作のアメリカ映画。92分。
監督は、イリヤ・ナイシュラー(Ilya Naishuller)。
脚本は、デレク・コルスタッド(Derek Kolstad)。
撮影は、パヴェル・ポゴジェルスキ(Pawel Pogorzelski)。
編集は、ウィリアム・イェイ(William Yeh)とエヴァン・シフ(Evan Schiff)。
原題は、"Nobody"。

 

男(Bob Odenkirk)の顔にはいくつもの切り傷や痣があり、乾いた血がこびり付いている。デニムのシャツも血に染まり、汚れたジャケットには穴が開いている。手錠をかけられた両手を器用に動かして、シャツのポケットから煙草の箱を取り出し、シガレットを一本引き抜く。ライターを取り出して火を点け一服すると、ポケットに入っていた缶詰を机の上に置き、缶切りで蓋を開ける。どこに隠し持っていたのか、白い仔猫まで取り出すと、缶詰を食べさせる。向かい側に坐る刑事(Erik Athavale)がガムを噛みながら訝しげに男を見つめている。その隣に座る刑事(Kristen Harris)が痺れを切らして尋ねる。何者なの、あんたは。俺か、…俺は誰でも無い。
男の名はハッチ・マンセル。不動産事業の順調な妻ベッカ(Connie Nielsen)、思春期の最中にある息子ブレイク(Gage Munroe)、まだぬいぐるみを抱える幼い娘アビー(Paisley Cadorath)のため、朝食を用意するのが日課だ。妻が学校へ送るため子供たちを車に乗せると、自らは歩いてバス停に向かう。義父エディー・ウィリアムズ(Michael Ironside)の経営する金属加工会社で経理事務を行うためだ。妻とはベッドを共にしているが、クッションで築かれた壁が2人の間を遮っている。火曜日のゴミを出しも担当するが、収集に間に合わないことがしょっちゅうある。会社の敷地を歩いていると車にクラクションを鳴らされる。週に一度は軽い運動を欠かさない。毎日を単調に暮らしていたが、ある晩、物音に気付いてベッドを抜け出た。2人の子供の部屋には異常がない。階下に降りると、玄関に人の気配がある。ゴルフクラブを手に様子を窺っていると、銃を持った覆面の男女が侵入してきた。金を要求されたハッチは、テーブルの上の皿に入っている紙幣を示す。これだけか? 現金は使わない。腕時計の値打ちは? 俺にとってはある。2人は時計を奪うと、指輪も要求してきた。これは無理だ。強盗と揉めるうち、自室から降りてきたブレイクが男に飛び付く。ハッチは敢えて攻撃を加えず、収穫がないと諦めた強盗が息子を殴って逃走するのに任せた。ブレイクは十分攻撃できたのに何もしなかった父親の弱腰に落胆する。通報を受け駆け付けた警官(Adam Hurtig)は、一通りの捜査を終えると、ゴルフクラブを使用しなかったのは賢明だった、ガレージも戸締まりするようにと言い残して立ち去った。

 

妻子とともに平穏な生活を営んでいたハッチ・マンセル(Bob Odenkirk)が、ある晩、自宅が強盗に襲われたことをきっかけに、長らく眠らせていた能力を目覚めさせることになる。

テンポの良いアクション映画。冒頭の取調室のシーンで、タバコやライターのみならず缶詰や仔猫まで身につけている服から取り出すことで示されているように、一見ハードボイルドだが、コメディの要素も強い。

 ところで、私たちはすでに、ある巨人族の島に漂着した主人公が、自らの名を「ウーティス(無名)」として語りながら、巧みな言語的機智によって幽閉の災難をのがれる神話的な物語を知っている。いうまでもなくホメロスの『オデュッセイア』の第9歌にあらわれる「キュクロプス」の物語である。そこで主人公のオデュッセウスは、単眼の巨人キュクロプスの島で囚われの身となり、部下のおおくは食われたり鎖に繫がれて洞窟に監禁されたりする。脱出のための機略として、オデュッセウスはまず、船に積んであった極上の葡萄酒をキュクロプスにすすめる。たっぷりと呑んで酔いがまわったキュクロプスは上機嫌で、オデュッセウスに名を訊ねる。オデュッセウスは、「誰でもないもの」(ウーティス)と答える。やがて泥酔して眠りについたキュクロプスをたしかめると、オデュッセウスは先を尖らせたオリーヴ樹の丸太を差し上げて、部下とともにキュクロプスの眼に突き刺し、上からのしかかってギリギリと回転させる。盲となって眼から血を流しながらもだえるキュクロプスは、仲間の巨人たちに助けを求めてこう訴える。「皆の衆、わしを詭計によって殺そうとしている者は“誰でもない”というのだ」。集まってきた仲間たちは、暴力を振るった者が「誰でもない」のだとすれば、心配するにおよばぬ、と言い捨てて立ち去る。オデュッセウスはこうして無事に難をのがれて島からの脱出に成功するのである。
 ここでオデュッセウスが自分の名として口にする「ウーティス」utisとは、"no-man"ないし"nobody"を意味するギリシャ語である。問われた自らの名を名乗ることなく、その否定辞の答えが同時に「誰でもない」という固有名として通用してしまう二律背反を利用しながら、ここでのオデュッセウスの言語的詭計は見事に功を奏する。いわば彼は、「無名」という負の属性を、逆に「誰でもない者」という正の属性へと反転させることによって、単眼の巨人の暴力的で一元的な論理を破綻させたのだといえる。(今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社/2017年/p.194-195)

"Nobody"によって遂行されるあらゆる行為は全て否定されることになる。従って、「"Nobody"が逮捕された」としても、当然のことながら「誰も逮捕されなかった」ことになる。

本作では、ハッチ・マンセルの驚異的な能力は所与のものであり、その獲得の経緯は詳らかでない。
冴えない中年男が超人的な能力を手にした顚末を描いた作品としては、イタリア映画『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ(Lo chiamavano Jeeg Robot)』(2015)が秀逸。因みに、主人公のエンツォが超能力を手に入れる経緯は、おそらくはフィリッポ・マリネッティ未来派誕生のきっかけとなった事故を踏まえているだろう。