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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『流線形の鉄道 1930年代を牽引した機関車たち』

展覧会『流線形の鉄道 1930年代を牽引した機関車たち』を鑑賞しての備忘録
旧新橋停車場 鉄道歴史展示室にて、2019年7月9日~10月14日。

1930年代の流線形(車輌の空気抵抗を減らして速度を追求した形)の鉄道を解説パネルと鉄道車輌の模型で紹介する企画。

 (略)確かに流線形とは最先端技術であるのだが、内部構造の組み立てからはじめるというのは少ない。いわばゼロから流線形を作り上げてゆくというパターンが、意外に少ないということである。これまではすでにある車体、すでに存在している本体構造はそのままに、外装だけを流線形に仕立てようという発想がほとんどなのである。いわばそれは改装であって創造ではない。そういっても差しつかえないだろう。
 そうした改装の系譜のなかで、早くから内部構造と流線形ボディーの関係に取り組んできた分野がある。蒸気機関車の流線形化である。十九世紀産業革命以来、蒸気機関車は陸上輸送の覇者であった。近代化をになった中心的存在だったのである。それゆえ各国ともに、鉄路の普及の度合いも車体の技術改良も、二〇世紀初頭にすでにある程度成熟した段階に達していた。もちろん、内燃機関の大型出力化など、現在進行形で改良が重ねられていたことは事実だ。しかし、ボイラーと圧力釜の配置関係とか、車軸の本数やブレーキ構造とか、基本的なレイアウトはほぼ落ちつくべきところに落ちついていたのである。
(略)
 (略)煙突を上部平面に埋めこんだり、傾斜角をもたせる。車輪はステンレス鋼の円盤にして、機関車と炭水車には流線形成形カバーをかぶせ空気の流れを均一にする。運転席が車輌の最前部に移動しているタイプも試され、ボイラーの配置も工夫される。煙突の高さに排煙用の水平板を取りつける。排出蒸気を利用してベルの構造を改変するなどなど。あらゆる点で、内部構造に手が加えられてゆくのである。もはや外装をそれらしく成形すればよい、という次元ではなくなっているのだ。外部としての流線形デザインは、内部としてのメカニズムと連動しているのである。少なくとも蒸気機関車において、流線形はたんに表層のできごとではなくなっている。そこには外部と同時に内部をひとつの文脈で捉えなくてはならない、という視線が誕生しているのである。(原克『流線形シンドローム 速度と身体の大衆文化誌』紀伊國屋書店・2008年p.54-59)

1920年代末には自動車が300km/h、飛行機が500km/hと、最高速度の更新を重ねていた。既に改良を重ねてきた蒸気機関車に改善の余地はほとんどなく、むしろ、石炭から重油へのエネルギーの効率化や電力への転換が、苛酷な運転業務(給炭)からの解放などから求められるようになっており、1932年にはドイツ国鉄のフリーゲンダー・ハンブルガー号が、1934年にはアメリカのユニオン・パシフィック鉄道のM-10000形やシカゴ・バーリントン・クインシー鉄道のゼファー号が登場した。

日本の鉄道省の技術者・島秀雄は、流線形の速度への影響が薄いことを認識しながらも、世界的な流線形の流行と上層部からの指示でC53形蒸気機関車やC55型蒸気機関車などの流線形デザインを手がけた。

蒸気機関車は鉄の塊であるにも拘らず、律動的な呼吸を繰り返すかのように蒸気を吐いて進む。その姿に生命の躍動が感じられ、滑らかな面を持つ流線形のデザインに親和性があるとの指摘が興味深い。

インダストリアル・デザインという職能がノーマン・ベル・ゲデスらによって開拓された。彼らによって仮説提案型のデザインがなされたことで、機能が形を生み出していた蒸気機関車に変化をもたらした。ニュートーク・セントラル鉄道のマーキュリー号をデザインしたヘンリー・ドレフュス、ペンシルバニア鉄道のS1形蒸気機関車をデザインしたレイモンド・ローウィなどがその例に挙げられている。