可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 トカルチュク『逃亡派』

オルガ・トカルチュク『逃亡派』〔エクスリブリス〕白水社(2014)を読了しての備忘録
Olga Tokarczuk, 2007. "Bieguni"
小椋彩訳

116のエピソードが織りなす「巡り合わせ(コンステレーション)」の文学。

因果律にしたがい首尾一貫している論拠の連なりなどというものは、けっして創造しえないし、ある出来事が前の出来事の結果としてつぎつぎ起こるなどといった、都合のよい物語もありえない。あるようあるように見えても、それは近似にすぎません。(p.76)

本作は、幼いわたしが部屋でひとり「闇がやさしく空から降りて」「あらゆるものに降りつもる」状況を認識する記述で始まる。窓台から世界を眺めるわたしは暗闇の部屋(=カメラオブスクラ)と同化している。そして、「思いがけず、」「わたしが触れた」のは、わたしを俯瞰する眼差しである。カメラオブスクラとしての「わたしの存在だけが、はっきりした輪郭をとりはじめ」たのだ。すなわち自己(という身体)を発見したのである。それこそが「ほかにどうしようもない真実」である。「わたし」という存在の創世記。ゆえに「わたしはここにいる」と題された断章は冒頭にふさわしい。そして、自己を俯瞰するために身体から切り離された「わたし」は「無防備に取りのこされ」ることになる。身体としての自己が「ふるえて、ゆれて、わたしに痛みをもたらしている」。痛みとは、アイデンティティ・クライシスの痛みであり、孤独の痛みである。

わたしがしょっちゅう夢みていたのは、透明人間になることだった。のぞき見すること。理想的な観察者になること。ずっと昔に靴箱でつくったカメラ・オブスクラみたいに。それは、顕微鏡の瞳をそたえた黒く閉じられた空間を通して、わたしのために、世界の断片を写してくれた。箱のなかには瞳から光が射した。わたしは撮影を練習した。(p.181)

身体という物理的存在であるわたしは、カメラオブスクラである。わたしは、世界をのぞき見る。「見ることは知ること」(p.20-22の断章のタイトル)だから。では、なぜ知るのか。それは語るためであろう。「語られる生は救われる」からだ。

なにひとつ、明らかにされないものはない。語られない状況はない。閉じられたままの扉はなくて、呪いのひと蹴りでむりやりこじ開ける。忘れたいと願っている恥ずべき廊下にさえ、立ち入ってみせる。どんな堕落も、どんな罪もおそれない。語る罪は赦されている。語られる生は救われる。聖ジグムントも、聖カロルも聖ヤコブも、わたしたちにこれを押しているのではないの? 話すことを学ばぬものは、永遠に囚われの身のままなのだと。(p.178)

逆に、語られなければ、どうだろう。その存在は失われてしまうのだ。

 いったいなにが起きたのか、部屋には理解できなかった。部屋は思った。持ち主は死んでしまったのだと。ドアが閉められ、鍵がかけられ、いっさいの音が遠くきこえなくなってから。影もふちも、消えかけた淡いしみみたい。空間は使われることなく硬直し、すきま風にも、カーテンのゆらぎにも脅かされることなく、この静止のなかでひかえめに、かたちを結晶しはじめた。まずは試しに、廊下の床と天井のあいだにぶらさがっている空間を。
 もちろんここに、あたらしいことはなにも起きない。これは、よく知られたかたちのイミテーションでしかない。泡のかたまりのなかでもつれて、輪郭を保つのはほんの一瞬。これは一回きりのエピソード、ただの身ぶり、それだけ。それはたとえば、たえず、そしてたいていおなじ場所で、生まれては消える、やわらかい絨毯の上の足跡。あるいは机の上で文字を書くふりをする手。その手がなにを書いているかはまったくわからない、なぜならペンも、紙も、筆跡も、身体のほかの部分もそこに存在しないから。(p.63-64)

本書では、驚異の部屋に残された標本やプラスティネーションなど、身体を保存するための過去の営為が繰り返し語られる。これは、語りの比喩表現となっている。
語りとは記述である。だが救いのための記述は、同時に破壊をもたらす。

記述というのは使用とおなじで、破壊する。色はぬぐわれ、角は鋭さを失う。描かれたことは次第に色あせ、最後には消えてしまう。とりわけこれは、場所に関して言えること。ガイドブックの文学がもたらした荒廃ははかりしれない。インベーダーか、疫病みたいなものだ。ある旅行案内シリーズは、惑星の大半を永久に破壊した。あらゆる言語で何百万部も出版されて、それらの場所は、力を失い、ピンで留められ、名前をつけられ、角をまるく磨かれた。(p.69-70)

なぜ記述が破壊なのか。それは、「そのためのことばが見つかることしか書きこまないから」、「すべてを含むことはできない」からだ(p.73)。
それでは、救いのための記述はどこへ向かうべきなのか。

 だから、バランスを保つため、知識のべつの集まりも必要だ。わたしたちが知らない、下方、左側、裏面。どんなリストにも掲載されない、どんな検索エンジンでもたどりつけないこと。その大きなかたまりを、ことばで超えていくことは不可能だ。ひと足ごとに、ことばのあいだに、意味のあいだの、ぱっくりあいた深淵にはまりこむ。歩くたびに足をとられて、落ちていく。
 ただひとつ、可能な動きは、深く奥へ進むこと。(p.73)

「意味のあいだの、ぱっくりあいた深淵にはまりこむ」で、「深く奥へ進む」以外にないという。記述できないことを記述する、そんな芸当があるのだろうか。作者は、ここで物質と反物質に類する「情報と、反情報」という概念を挙げる。それは無論、折衷主義などではない。岡本太郎の言う対極主義である。矛盾の深淵を絶望的に深め、その緊張のなかに前進することで見えてくる火花のような光景。この点、幻肢痛に関わるエピソード「切断された脚への手紙」などは、「脚の切断」という「打ち消し」に対し「幻肢痛」で「打ち消しを打ち消す」。まさに火花の散らんばかりの情景を描いていると言えないだろうか。

必然的に欠落を生む記述を正確にするためのもう一つの処方箋は、端から欠落を受け容れてしまうことだ。

むしろ、われわれの経験をより正確にコピー(再現)しようと思うなら、部分から全体をつくることです。つまり、同一平面上に、同程度の意義や同心的配列をもたせた断片を並べて、大きな全体とするのです。一貫性ではなく、巡り合わせこそが真実です。(p.78)

まさに本作品が「一貫性ではなく、巡り合わせ」を期して構成されている。それでは『逃亡派』は、語りという救いを自ら放棄した敗北主義なのだろうか。無論、そうではない。夜空に浮かぶ星座(=コンステレーション=巡り合わせ)のように、あふれる情報の海に溺れる読者をきっと救いへと導くことだろう。

 果てしない大陸の上空をわたる飛行機、不穏な夢から目覚めて、機内のそのひとは窓に顔を近づけた。眼下には、大きな真っ黒い大地が見える。闇のなかのそこかしこに、光がかすかにまたたいているだけ。大きな街々のあかり。モニターに映る地図によれば、あれはロシアの、中央シベリア。彼は毛布にくるまり、ふたたび寝入った。
 そのころ地上の、そのひとの見た黒いしみのひとつの上で、べつのだれかが木造の、自分の家から顔を出し、空を見上げて、あしたの天気を確かめる。
 もしわたしたちが大地の中心からまっすぐに、仮想の線を引いたなら、その光の線の延長に、ほんの一瞬、このふたりがいるかもしれない。線上で、ほんの一瞬、ふたりのまなざしが交わるかもしれない。ほんの一瞬、光がふたりの瞳孔を、糸のように貫いているかもしれない。
 ほんの一瞬、彼らふたりは、垂直方向の隣人だった。一万一千メートルが、いったいなんだというのだろう。十キロよりちょっと長いくらいで、ほとんど変わらない。地上に住んでいるあのひとにとっては、もっとも近い村落よりもずっと近い。大都会の地区をへだてる距離よりも、それはちいさい。(p.328-329)

 

なかなか全体をまとめて紹介するのが難しい。例えば、「大きなものとちいさなものの相互の照応」(p.187)も大きなテーマの1つ。「一貫性ではなく、巡り合わせ」を大切にしたということで。本作品の「訳者あとがき」を読むことで全体を俯瞰できる(作者Olgaと訳者Oguraの共鳴も一つの巡り合わせ?)。
ギリシャが重要なイメージを提供している。ゼノンのパラドクス、ヘラクレイトスといったギリシャ哲学や、ギリシャ神話(星座=コンステレーション!)についても知識がある人はより楽しめるかもしれない。
驚異の部屋、あるいは無言劇(森山大道)の世界も重要なイメージ。
訳者によると原書に近いかたちで地図が作品の中に鏤められている。私はこの地図を「俯瞰する視線」以上には小説につなげることができなかった。そのつながりを実感・解釈できれば、また違う味わいが楽しめそう。
断章が鏤められた本作のスタイルに強い魅力を感じてしまう。だが、苦手な向きは短編集と思って読むと良い。表題作「逃亡派」(p.226-258+p.258-261「逃亡派の女はなにを言っていたか」)だけでも頗る面白い。他に「ブラウ博士の旅」(Ⅰ:p.125-140, Ⅱ:p.143-163)、「アキレス腱」+「弟子であり親友であるヴィレム・ファン・ホーセンによって記された、フィリップ・フェルヘイエンの来歴」+「切断された脚への手紙」(p.182-211、「三万ギルダー」+「皇帝のコレクション」:p.214-223)、「クニツキ」(水Ⅰ:p.25-34、水Ⅱ:p.35-52、地:p.330-360)、「神の国」(p.273-305)、「カイロス」(p.367-394)など。
「彼らの前で幻想をあばきたてたりもしない。哀れな人びとの住む、ぬりつぶされた街の。わたしは彼らにほほえみかけて、彼らの話に相槌を打つ。彼らにショックを与えたくない。じつは街は存在しないだなんて。」(p.98)。それは、「幻想空間は中身のない表面であり、いわば欲望が投射されるスクリーンである」から(スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』青土社/1995年/p.28)。
「数週間後、日本近海でクジラが捕獲され、彼らのうつくしいやわらかな身体は、犬の餌になった。」(p.273「クジラ、空中でおぼれる」)。ウェス・アンダーソン監督の『犬ヶ島』(原題:Isle of Dogs)など、もともと犬のイメージは強いのだろうか。大統領「当選者」の足下に駆け付けひれ伏す犬が、そのイメージを強化するのに貢献していることだろう。
勝手に対極主義を持ち出したが、第23回岡本太郎現代芸術賞展で見た小嶋晶の作品はアイデンティティ・クライシスをテーマにしており(彼女の表現=作品をテーマ=ステートメントと結びつけることが私には難しかったのだが)、本作の中でちょっと繋がった気がした。