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芸術鑑賞の備忘録

映画『ディア・エヴァン・ハンセン』

映画『ディア・エヴァン・ハンセン』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のアメリカ映画。138分。
監督は、スティーブン・チョボウスキー(Stephen Chbosky)。
原作は、スティーブン・レベンソン(Steven Levenson)の脚本、ベンジ・パセク(Benj Pasek)とジャスティン・ポール(Justin Paul)の作詞・作曲によるミュージカル『ディア・エヴァン・ハンセン(Dear Evan Hansen)』
脚本は、スティーブン・レベンソン(Steven Levenson)。
撮影は、ブランドン・トゥロスト(Brandon Trost)。
編集は、アン・マッケイブ(Anne McCabe)。
原題は、"Dear Evan Hansen"。


朝、自室のベッドでラップトップに向かうエヴァン・ハンセン(Ben Platt)。「親愛なるエヴァン・ハンセン。今日は素晴らしい1日になるでしょう。それというのも」。手紙の文面を打ち込んでいく。左腕にはギプスがつけられている。「今日1日、自分らしくありさえすればいいからです」。ベッドサイド・テーブルにはブプロピオン、セルトラリンジアゼパムの薬瓶。「自信を持って、面白く、話しやすい」。エヴァンは打ち込んだ文字を消去していく。高校の最終学年の初日。変わりたいと思いつつ、その思いを周囲の人たちに伝える自信がない。自分の最悪な部分が出てしまうことを極度に恐れ、決して渡ることのない石橋を叩くのだ。エヴァンが階下に降りると、キッチンにいる母親のハイディ(Julianne Moore)が朝食を出す。ハイディは息子にセラピストのシャーマン先生に持って行く手紙を書いているか確認するとともに、友達をつくるきっかけにギプスに名前を書いてもらうようペンを渡す。母親の車でエヴァンは高校に向かった。
新年度初日の学校は再会を喜ぶ生徒たちの活気に満ちている。エヴァンには誰一人挨拶を交わす生徒がいない。恰も幽霊のように校内を抜けていく。
体育館ではチアリーダーたちの華やかな演舞が行なわれている。PA卓でミキサーを操作するジャレド・カウワン(Nik Dodani)の隣にエヴァンの姿があった。エヴァンはギターを弾くゾーイ・マーフィー(Kaitlyn Dever)に目を奪われている。ジャレドからゾーイにアプローチしたことはあるのかと問われたエヴァンは、試みたことはあると答える。休暇の話題をふられたエヴァンがパーク・レンジャーとして働いたことや、木登りをして落ちたことを伝えると、ガキじゃあるまいし木登りってと鼻で笑うジャレドは自分が出会った素晴らしい男とのアヴァンチュールについて嬉々として語った。チアリーダーの演舞が終わると、アラナ・ベック(Amandla Stenberg)が演台に立ち、森林破壊について語り始めた。エヴァンがジャレドにギプスに名前を書いて欲しいと頼むと、お前じゃなくて家族が友達なだけだと断られてしまう。
ロッカーにいたエヴァンは、コナー・マーフィー(Colton Ryan)が黒いマニキュアをしているのをからかわれ、銃でも乱射するんじゃないかと囃されているのを目撃する。通りがかったコナーに微笑むエヴァンだったが、笑うんじゃないとコナーに怒鳴りつけられてしまう。狼狽えるエヴァンに駆け寄ったゾーイは兄の態度について謝る。エヴァンよね、と確認されたエヴァンは憧れのゾーイを前にしどろもどろ。握手のために手を差し出されるが、自分の手汗が気になったエヴァンは思わず逃げ出してしまった。
コンピューター・ルームでシャーマン先生に提出する自分宛の手紙を書いたエヴァンがデジタル複合機でプリントを受け取るのを待っていた。そこへコナーが通りかかる。コナーは親友のフリをしてやると、困惑するエヴァンを気にすることなく、近くのテーブルにあったペンを手に取ると、ギプスにでかでかと名前を書き込んだ。そして、印字された手紙を勝手に持って行ってしまう。
エヴァンは自分の書いた日記のような手紙がアップロードされていないか不安でたまらない。コナーのSNSを探ってみるが何もなかった。登校時に顔を合わせたジャレドに相談すると、間違いなくコナーに手紙をばらまかれると脅される。そこへ校内放送があり、エヴァンはハワード先生(Swift Rice)から呼び出される。ハワード先生のもとへ向かうと、コナーの母親シンシア・マーフィー(Amy Adams) と父親のラリー・モーラ(Danny Pino)を紹介される。コナーの両親に向かい合う形でソファに腰を降ろしたエヴァン。はやる気持ちを抑えるような様子のシンシアが、あなたはコナーの友達だったのよねと確認する。当惑するエヴァンに、母親は折りたたまれた紙を取り出す。コナーが最期に唯一持っていたものがあなた宛の手紙なの。

 

セラピストから自分宛の手紙を書くよう求められた社交不安障害に悩むエヴァン・ハンセン(Ben Platt)は、学校の複合機で印刷した手紙を何をしでかすか分からない乱暴者のコナー・マーフィー(Colton Ryan)に奪われてしまう。コナーは、エヴァンが密かに思いを寄せるゾーイ・マーフィー(Kaitlyn Dever)の兄でもあった。3日後、登校したエヴァンをコナーの両親であるシンシア・マーフィー(Amy Adams) とラリー・モーラ(Danny Pino)が待ち受けていた。シンシアは息子の唯一の遺品であるエヴァン・ハンセン宛の手紙を取り出し、エヴァンにコナーの友達だったのか確認される。悲痛な母親の姿を前にしたエヴァンは思わずそうだと答えてしまう。コナーの家に招かれたエヴァンは、コナーが幼い頃ピクニックに行った果樹園――現在では閉鎖されている――の話を聞きかじり、そこが「2人」で行って語り合った思い出の場所で、木に登った自分が落ちたところをコナーに助けてもらったのだと作り話を語って聞かせるのだった。

以下、全篇について触れる。

エヴァン・ハンセンは木から落ちて左腕を骨折する。助けを待っても誰もやって来なかった。誰もいない森の中で木から落ちたら、それは落ちたと言えるのか。冒頭でエヴァンから投げかけられる問いである。
実はエヴァンが木から落ちたのには明確な目的があった。セラピストの求めに応じ心理療法として書いた自分宛の手紙を奪い去ったコナー・マーフィが自殺したと聞いたエヴァンは一体どんな気持ちになったのか。コナーは自分であり得たと思わざるを得なかっただろう。だからこそコナーを偲び悲しみにくれるシンシアのためにできることをしたのだ。
エヴァンの幼少期のある日、家の前にトラックが停まり、家から荷物を取り出した父親は立ち去った。まだ幼かったエヴァンはその意味を理解しておらず、トラックの運転席に座れたことを喜んでいたというエピソードが切ない。ハイディはエヴァンのために看護師として懸命に働いてきた。だが必死になればなるほどエヴァンとの接触する機会は減っていく。そして、エヴァンは母親に会えない寂しさとともに、自分が母親の負担になっていることに気付かない訳にいかない。お互いが相手を思えばこそ、お互いの間に遠心力が働いてしまう。父の次にはハイディが立ち去ってしまうのではないかという不安がエヴァンの心を蝕んだ。それだけに、エヴァンとハイディとの「和解」のシーンは胸に迫るものがある。
エヴァンがコナーについて「語る」ことで、コナーの一家から受け容れられる経験は、たとえいずれ破綻が訪れるとしても、孤独なエヴァンにとって絶ち難いものだった。そして、破綻後、「2人の息子」を失いたくないとシンシアがエヴァンを糾弾しなかった(とゾーイを通して知らされる)ことで、エヴァンは自ら責めを負い、コナー(すなわち「2人の息子」)になる決意を固めるのだ。
冒頭の曲"Waving Through A Window"では、"Cause I'm tap, tap, tapping on the glass"は、自室の窓から通りを眺めるエヴァンとして描かれていたが、作品を通してみると、"a window"や"the glass"はPCやスマート・フォンの画面であることが明白だ。