可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中野由紀子個展『移動、屋根と輪郭』

展覧会『中野由紀子「移動、屋根と輪郭」』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2023年6月19日~24日。

身近な景観に取材した絵画11点で構成される、中野由紀子の個展。

《屋根、移動》(1620mm×1940mm)の画面のほとんどは、10本ほどある、対生に伸びる葉を持つ茎が占めている。濃い緑色の植物の線は、上から重ねられた白い絵の具によって模糊となる。画面中央の右寄りに屋根が灰青の輪郭線で現わされている。屋根の尖端の波の形には朱色の線が添えられているのが目を惹く。さらにその上から波状の屋根に呼応する波線や、植物を表わすと思しき"γ"の形、あるいは雨粒のような点が白い絵具で描き入れられている。淡いモスグリーンの破線や網状の形、あるいは画面の埋める葉と茎に似た形状が小さくなったものや、花と茎のようなイメージが濃い緑が添えられている。あるイメージの上に別のイメージを描き重ねていくことで、画面に奥行きを生んでいる様が、とりわけ全体を包む白い絵具の効果によって強調される。また、その白い膜の上から描き加えられた白いモティーフは、白に白のために目立たなくなっているが、絵具を滴らせている。それは雨や湿度の高さの表現とも解されるが、むしろ、今にも失われようとする、刹那の仮象としての景観を表わしているのだろう。滴りという絵具の物理的移動は、変化=時間の直接的な表現なのだ。それがスイッチとなって、画面の下層(story)を透かし見せる絵画の構造が、時間軸のある物語(story)として構想されていることに気が付く。それは絵画(picture)を動画(motion picture)へと転換する。そうだ、これは、現代の《松林図屛風》だ。長谷川等伯が屏風(screen)に霧の中の松林の姿を、その樹形をレイヤーとして描いて動画的に描き出して見せたのと同じなのだ。

 幼児は一般に動画を好む。写真よりも動く映像を好むのである。とりわけ自分を写した動画を好んでコンピュータの画面から離れない。ここから多くのことが分かる。
 映画は動く写真だが、人間にとっては動く写真すなわち映画のほうが理解しやすく記憶もしやすいのである。映画は写真技術の発展の延長線上に生まれた。だが、だからといって、映画が写真より高度であるということにはならない。映画のほうが写真よりも、通常の印象とは違って、いわば初歩的なのだ。写真は解読の対象であり、映画は感情移入の対象である。解読よりは感情移入のほうが簡単なのである。
 凝視黙考はたんなる感情移入よりもはるかに難しい。
 ここから、人間に最初に訪れたものは映画的なものであって、写真的なものではないことが想像される。これを言い換えれば、叙事詩は古く、叙情詩は新しいということになる。物語は古く、詩は新しい。
 折口信夫が『古代研究』から『日本文学の発生序説』への過程で繰り返し問題にしていたことである。歌から歌物語が成立したとは王朝を専門とする国文学者の広く説くところだが、それには前段階があって、そこでは順序が逆になっているのだ。つまり、人麻呂は長歌から短歌を切り出したのであって、逆ではない。長歌は物語り、短歌は人を凝視黙考させるのである。折口はつねに補助線を描いてはそれを最大限にまで延長してみせる。とすれば古来伝えられる諺にもその前段階として長い物語があったのではないか、というように。
 幼児は動画を好み、コンピュータを好み、ユーチューブを好む。マウスやタッチパネルから離れようとしない。なぜか。いずれもそれに相当するものがすでに脳内に存在しているからである。そうとしか考えられない。人間が写真を発明したのは、それがすでに脳内に存在していたからであるというのと、同じである。
 だが、好まれているその動画は、虚像である。
 人間の脳内の作図能力は、魂を生み、霊を生み、神を生んだ。人間は他者に乗り移るだけではない、自然物に乗り移り、観念にさえ乗り移る。人は、魂の乗り移り、霊に乗り移り、神に乗り移る。(略)
 (略)
 人間にとっては虚像こそが実像なのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.432-434)

《屋根、移動》も《松林図屛風》も動画として構想され、それが故に鑑賞者の感情移入を誘う。それこそが両者の画面から離れがたい没入感を生むからくりであった。