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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『山手線展~やまのてせんが丸くなるまで~』

展覧会『山手線展~やまのてせんが丸くなるまで~』を鑑賞しての備忘録
旧新橋停車場 鉄道歴史展示室にて、2023年3月28日~7月9日。

山手線が環状線となり、現在にいたるまでの歩みを紹介する企画。第1章「山手線誕生」(1.1「山手線誕生前夜~日本鉄道品川線の開業~」、1.2「環状線への道~豊島線の開業~」、第2章「山手線の環状化」(2.1「環状線の完成~電車運転の開始~」、2.2「もうひとつの役割~貨物輸送の強化~」、第3章「副都心の形成」(3.1「ターミナルの発達」、3.2「副都心の誕生」、3.3「旅客輸送への特化」)、第4章「山手線の今」の4章と、コラムなどで構成される。

1885年3月、日本鉄道の品川線(品川~赤羽)が開業する(現在の山手線の西側で、京浜東北線と併走するルートではない)。既に上野~前橋間で鉄道を運行していた日本鉄道は、品川線によって、新橋~横浜間の官鉄と接続し、繭・生糸・絹織物を北関東から横浜港へと輸送するルートを構築したのだ。品川線に設置された駅は、中山道の板橋、甲州街道や青梅街道の新宿、大山街道の渋谷である。後に目白、目黒も設置される。1日3往復であった。
高崎線(1884)、東北本線(1891)、常磐線(1898)を全通させた日本鉄道は、田端から延びる常磐線を品川線に接続するべく、田端から目白への新路線「豊島線」を計画する。しかし、目白駅の拡張に難があることや中途で巣鴨監獄を挟むことなど支障があったため、目白の北に池袋を設置することとなった。豊島線は品川線と一体化され、山手線となる(未だ新橋~上野間が接続されておらず、現在の路線の約4分の3の長さ)。
1906年鉄道国有法が制定された。1919年に東京駅(中央停車場)が開業すると、中央線(旧甲武鉄道)の中野~東京、そして東京~新橋~品川、さらに品川~田端~上野という「の」の字運転が行われた。
1925年、東北本線の起点が上野から東京になり、山手線も環状運転となった。

1925年、山手線の環状運転が成る以前に、品川(1921年品川操車場)から田端(1915年田端操車場)にかけて線路が増設され、貨客の分離が行われていた。山手貨物線は、貨物専用線品鶴線と大崎支線で接続される。なお、戦後、1973~1978年に建設された武蔵野貨物線に貨物輸送が移されると、都心部の貨物線の旅客輸送転用(埼京線(1985)、湘南新宿ライン(2001))が行われる。

市電を運営する東京市は、山手線の内側に私鉄を延長させようとしなかった。そのために山手線の多くの駅が私鉄との乗換駅としての性格を併せ持った。関東大震災による郊外の発展、サラリーマンや学生、主婦といった「新中間層」の出現と相俟って、山手線の駅の周辺には、百貨店、飲食店、カフェ、映画館、劇場、寄席などが集まる盛り場が誕生することになった。
1956年に首都圏整備法が制定され、新宿・渋谷・池袋は「副都心」に指定される。新宿では1965年に淀橋浄水場が廃止され、跡地に超高層ビルが林立するビジネス街が形成され、1991年には都庁が移転した。

品川から代々木の9.9kmの間に33.8mの標高差のある山手線は「山岳路線」との指摘が興味深い。
利用者に選ばれる路線を目指すとしながら、公募の案を無視した山手線「新駅」の名称選定や、その「新駅」(あくまでも堅固な負けない駅舎)の建設に伴っての、文字通り鉄道の礎(高輪築堤)の破壊など、負の側面に触れていないのが片手落ちである。