可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 安齋和佳個展『風と草と人』

展覧会『安齋和佳「風と草と人」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて2023年10月9日~14日。

植物または人あるいは身体をモティーフとした作品19点(油彩画10点とドローイング9点)で構成される、安齋和佳の個展。

メインヴィジュアルに採用されている《枯れるまで》(1303mm×1620mm)は、所狭しと並べた多数の鉢植えの植物――室内で育てる葉を楽しむ観葉植物の類――を油絵具と木炭によるモノクロームで表わした作品。鉢、瓶、皿などから、その容器に比して大きく生長した植物が茎を大きく葉を拡げている。葉の表現には、擦れ、滲み、垂れ、暈かしなどが目立つ。そこに絵筆を刷いた線が描き込まれる。サンルームか温室か、あるいはリヴィングなのか。鉢植えが並べられているのは室内と思われるが、そこに風が吹き込んでいるようだ。
観葉植物は、ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)が『パンセ(Pensées)』に記した、人間は葦でしかない(L’homme n’est qu’un roseau)――但し思考する葦である(mais c’est un roseau pensant)――との言葉を梃子に、人間のメタファーと解することも不可能ではあるまい(因みに、暗闇に草と風とを表わした《草》(351mm×278mm)も展示されている)。なぜなら、暗闇の中、椅子に深く腰を沈め、右腕を肘掛けに載せ、左腕を背もたれの外に垂らし、項垂れる人物を描いた《人》(894mm×1455mm)は、鉢植えの植物に見立てることができるからだ。脚がひげ根のような形状になっていることは、椅子に凭れ掛かる人物を作家が植物と見ていることの証左である。
そして、観葉植物とそれに吹き寄せる僅かな風という点では、また、窓辺の台の鉢植えを描いた《花》(1620mm×970mm)という作品からも、ジョージ・オーウェル(George Orwell)の小説『葉蘭をそよがせよ(Keep the Aspidistra Flying)』が思い起こされる。

 この小説のタイトルにふくまれる「葉蘭」は1930年代のイギリスにおいて独特な意味合いを帯びていた。中国および日本の原産で日本では庭や街路でよく見られる植物であるが(寿司屋の「ばらん」でもおなじみである)、イギリスではおそらく19世紀初めに輸入され、当初上層階級の観葉植物だったものが、その強靱な性質――そう手入れが要らない、長期間水をやらなくても枯れない――ゆえに普及し、1930年代には下層中流階級の住宅の窓辺の多くをこの植物の鉢植えが飾るようになっていた。そのころともなると「退屈な中流階級のリスペクタビリティ(お上品さ)」(『オクスフォード英語辞典』のaspidistraの項より)を象徴するアイテムと化していた。
 『葉蘭をそよがせよ』でもゴードンの住む下層中流階級の住宅街にはどこもかしこも窓辺に葉蘭の鉢が置かれている。ゴードンの安下宿の部屋にももとから葉蘭が置かれていたのだが、それが象徴する「お上品さ」を耐えがたいと感じるゴードンは葉蘭に憎悪の念をもつ。
 (略)
 この小説でのゴードンの「マモン(金の神)」への反逆の仕方は相当にエキセントリックである。『牧師の娘』のドロシー・ヘアと同様に、この主人公にも共感するのが難しいと感じる読者もけっこういるのではないか。しかし1930年代半ばのイギリス社会(といってもイングランド南部、ロンドンに住む反逆的な文学青年の住む世界ではあるが)の世相を描きつつ、のちの『一九八四年』を先取りするような「庶民讃歌」を展開していくくだりなど、この小説にはオーウェルならではの独特な光があるように私には感じられる。この小説をとおして頻繁に歩行するゴードンは、物語の終わり近くで「典型的な下層中流階級の通り」を歩いている。どこも葉蘭の鉢が窓辺に見られる。それらの家々に住む人びとのことをゴードンは思い描いてみる――

あのなかの下層中流階級の人びと、レースのカーテンの背後で、子どもをもち、がらくたの家具と葉蘭とともにいる彼らは、金の掟によって生きている。それはまあたしかだ。けれども、おのれのディーセンシー(まっとうさ)を保つことをしおおせているのだ。彼らが解釈する金の掟とは、単なる冷笑的なものだとか豚のごとく不潔なものではない。彼らには彼らなりの基準がある、侵すべからざる道義心がある。彼らは「品位を保って」いる――葉蘭をそよがせているのだ。それに、彼らは生きている。人生のしがらみにとらわれている。彼らはこどもをもうけるが、それは聖人だとか、魂の救済者だとかが、どうあってもけっして果たさぬことなのだ。
 葉蘭は生命の木だ、と彼はふと思った(第11章)

 この「庶民讃歌」と呼べるようなゴードンの想いは、のちに『一九八四年』で主人公のウィンストン・スミスが「プロール」階級の人々に対していだく期待の念の表明につながる。『葉蘭をそよがせよ』は「コモン・ピープル(ふつうの人びと)」にかけるポジティヴな思いを表明したオーウェルの最初の小説であったと見ることができる。(川端康雄『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌』岩波書店岩波新書〕/2020/p.80-82)

主に人物、否、身体と評するべきかを描いたドローイングが《枯れるまで》の反対側の壁面を飾る。地面に突っ伏す人物、これ以上は無理なまでに頭を下げて蹲る人物、横たわる人物、別の人物に抑え込まれる人物などだ。その1つに、フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya)の《我が子を食らうサトゥルヌス(Saturno devorando a su hijo)》を想起させる、両手を口に持っていき、手にした何かに齧り付いているような作品がある。もっとも、その人物は子(あるいはそれが象徴する未来)を喰らってはいない。次々と襲われる不安に、ときに衝動的な行動を取りたくもなる。だが、打ちのめされながらも、それを風に吹かれる草や木のようにやり過ごす。「枯れるまで」そのような営みを続けるコモン・ピープルに、オーウェル同様、掛け替えのない価値を見出しているのではないか。