可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『シック・オブ・マイセルフ』

映画『シック・オブ・マイセルフ』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のノルウェースウェーデンデンマーク・フランス合作映画。
97分。
監督・脚本・編集は、クリストファー・ボルグリ(Kristoffer Borgli)。
撮影は、ベンジャミン・ローブ(Benjamin Loeb)。
美術は、ヘンリック・スベンソン(Henrik Svensson)。
衣装は、ティーナ・ソルベル(Tina Solberg)とヨースタイン・ヴォーレンゲン(Jostein Wålengen)。
音楽は、Turns。
原題は、"Syk pike"。英題は、"Sick of Myself"。

 

オスロの高級レストラン。シグネ(Kristine Kujath Thorp)とトーマス(Eirik Sæther)の席にウェイター(Robert Skjærstad)がワインのボトルを運んでくる。2006年産のリシュブール・グランクリュ・ドメーヌ・ルロワ。1本23000クローネです。素晴らしい。今日は彼女の誕生日なんだ。値段を言わないでくれると良かったけど。おめでとうございます。自分で注いでもいいかな? 仕事を奪いたくないけど、手にできる機会なんてまずないからね。コルクも記念にもらっても? いろいろ悪いね。ウェイターが立ち去ると、トーマスがシグネに電話がかかってきたフリをして外に出るように言う。今? 周りの人に見られてるよ。なんでそんなにナルシスティックなの? 気にしちゃいないさ。落ち着いてよ。シグネは立ち上がり、電話の応対をしているように話して出口へ向かって歩き出す。だがシグネはかけ直すと言って、席に戻って来る。ウェイターが花火を付けたトレーを持ったスタッフとともにケーキを運んで来たからだ。拍手が起きる。お誕生日おめでとうございます。花火が消え、ウェイターが立ち去るや否や、トーマスが再び電話を受ける体で出て行けと言う。見られてるわ。ケーキがあるから? 今すぐやれよ。分かった。私がやったと言ったら? 何だって? 君がボトルを盗んだって言うのか? そう、イングヴェ(Fredrik Stenberg Ditlev-Simonsen)の家でね。面白いね。それでいい? ああ、君が盗った。
先にレストランを出たシグネは、通りで煙草を吸っている。ワインのボトルを抱えたトーマスが全速力で脇を駆け抜けていった。ウェイターは必死で追いかけたものの、途中で諦め引き返す。ウェイターはシグネの傍を気付かず通り過ぎていく。シグネは苦笑すると、トーマスの後を追いかける。
イングヴェの家でのパーティー。シグネとトーマスが踊りながらキスを交わす。
煙草を吸いに出たシグネがマルテ(Fanny Vaager)と話す。うまく世間を渡って行くのってナルシストよね。成功する人たちの前提条件としてナルシストがあるわけではないわ。才能と組み合わさってって話よ。あなたが言うことが正しいなら、ナルシシズムが成功の条件なら、なぜあなたはカフェ店員なの? ナルシストじゃないからよ。
よく言われるの、ポッドキャストを始めたらいいのに、面白い人だからって。イングヴェとトーマス相手にシグネが言う。誰が言ってるんだ? いろんな人よ。トーマスの知り合いがやって来て、そこで話が途切れる。
トーマスがイングヴェらと坐って盗んだワインの話をしている。シグネはどこにいたの? 先に店を出たんだ。俺がずっと一人坐ってた。いくらなんだ? シグネ、ワインの値段は? 談笑の輪から外れて近くに一人佇んでいたシグネにトーマスが尋ねる。23000。そりゃ高級だな。グラスで売るよ。盛り上がるトーマスたちの方をシグネがじっと見ている。
カフェ。カウンターにいたシグネが犬の吠え声と女性の悲鳴を聞く。店の中に血だらけの女性(Birgit Nordby)が入って来て救急車を呼んでと言う。倒れ込む彼女を支えるシグネ。救急隊が駆け付ける。被害女性といたシグネも白いシャツが血に染まっているため、救急隊員が怪我はないかと尋ねる。…いいえ。シグネが辺りを見回すと、店の外には野次馬が集まり、店内に目を凝らし、あるいはスマートフォンを向けている。血だらけのシグネは人々の視線を集めていた。
搬送や現場検証が終り、店内で警察官(Per Fronth)によるシグネの事情聴取が行われている。本能的に身体が動いたんです。でも周りの人は誰も助けてくれなくて。私だけでした。みんな棒立ちになってて。あなたのような人が手を差し伸べてくれて有り難いです。勇敢でしたね。もっと多くの人がそうしてくれるといいのですが。ご協力ありがとうございます。血を流したいですよね。ええ。ありがとう。警察官が立ち去る。
シグネは血だらけのままバスに乗り、街を歩く。心配した女性から声をかけられ、大丈夫だと答える。
アパルトマンに帰宅すると、ラップトップに向かったトーマスから空腹かと問われる。いいえ。北京ダックをとろうと思うんだけど、2人前以上じゃなきゃ注文できないんだ。本当に少しもいらないの? 部屋には様々な椅子や椅子を用いたオブジェが並んでいる。シグネ、聞いてる? トーマスがシグネのもとに来て、ようやく血だらけの姿に気付く。どうした? 事故があって、仕事中に…。トーマスは椅子に坐らせて怪我を確認する。どこから出血してるんだ? 傷口が見当たらない。犬よ。女性が噛まれて。私が助けたの。噛まれた? 分からない…。一瞬の出来事で…。犬に噛まれたら分かるよな。たぶん。これは君の血か? そうかも。自分の血かどうかは分かるだろ! …多分違う。それを言ってくれないと。怖かったの、間近にいたから。職場での事件だったのに、その格好で帰って来たのか? そう。

 

オスロ。カフェで店員をしているシグネ(Kristine Kujath Thorp)は、既製品の椅子を用いて立体作品を制作する芸術家トーマス(Eirik Sæther)と同棲している。シグネはトーマスが制作に用いる椅子を盗み出すのにしばしば手伝わされる。トーマスは大手ギャラリー「コタール」が若手支援向けに起ち上げたスペースで個展を開催する運びとなり、新進作家として頭角を現わし始めていた。イングヴェ(Fredrik Stenberg Ditlev-Simonsen)の家のパーティーに高級ワインを持っていくサプライズを思いついたトーマスは、シグネの誕生日を装って高級レストランに入り、電話に出るフリをさせて先にシグネを店から出すと、自らワインボトルを持って逃走した。ワイン窃盗を誇らしげに語って注目を浴びるトーマスにシグネは羨望の眼差しを向ける。
シグネの務めるカフェに、犬に噛まれて血だらけになった女性(Birgit Nordby)が助けを求めて入って来た。被害女性を抱き抱えたシグネは、野次馬らの注目を集める。視線を浴びる快感に、シグネは血だらけのまま帰宅してトーマスを呆れさせる。のみならずシグネはノルウェー最大手のタブロイド紙『ヴェルデンス・ガング』の記者である友人のマルテ(Fanny Vaager)に事件を記事にするよう依頼した。シグネは、トーマス、イングヴェ、エマ(Sarah Francesca Brænne)のいつもの面々の会食の場で、2週間経っても犬に噛まれた女性を救出した話題を繰り返し、周囲をうんざりさせる。トーマスの個展開催を祝して開かれた晩餐会。会話の輪に入れないシグネは、ナッツのアレルギーがあるとウェイター(Andreas Rand)に申告する。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

高級ワインをレストランからくすねてきたとイングヴェのパーティーで自慢するトーマス。彼が盗み遂せたのはシグネが彼のシナリオ通りに動いたからである。トーマスが既製品の椅子で制作するオブジェについても、シグネの協力があって窃盗に成功している。また、個展タイトルに"DAMAGE"を考えていたトーマスにノルウェー語(SKADEN)を用いるよう示唆したのもシグネである。『ビッグ・アイズ(Big Eyes)』(2014)や『天才作家の妻 40年目の真実(The Wife)』(2017)のように夫名義で作品を発表する実作者の妻のような立場ではないものの、シグネがトーマスの活動に少なからず寄与している。だが脚光を浴びるのはトーマスばかりで、シグネは恋人でありながらトーマスから妹やアシスタントとして軽く遇われている。ケアする立場のシグネをケアする者がいない。
シグネの転機になるのは、勤め先のカフェで猟犬に噛まれた女性を助けた出来事だった。被害女性を救出した際に浴びた注目の快感に酔い痴れるシグネは、血だらけのままトーマスのアパルトマンに帰宅する。視線を浴び、大丈夫かと声をかける――ケアの申し出をする――者が現われるのを期待してのことだった。
有名ギャラリーのセカンドスペースでのトーマスの個展。オープニングを祝う晩餐会で会話の輪に入れないシグネは、ナッツ・アレルギーを装い、注目を集める。薬害で皮膚が爛れた人たちの画像をネットで見たシグネは、副作用を引き起した強力な抗不安薬の入手を友人のスティアン(Steinar Klouman Hallert)に依頼する。もし顔など肌に疾患があれば注目を集め、他者からケアされたいとの願望が叶えられるだろうとの密かな狙いがあった。
シグネが薬剤で皮膚を傷める行動は常軌を逸している。だが、ホラーの色彩を帯びたブラックコメディを通じて描き出そうとしているのは、ケアするものがケアを受けられない状況ではなかろうか。トーマスが「盗んだ」「椅子(家具、人を支えるもの)」で脚光を浴びるのは、まさに他者からケアを収奪していることを象徴していよう。キャロル・ギリガンの提唱したケアの倫理に対する脚光や、それにも関連してのことだろうが、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)をめぐる近年の研究や、毛利眞美の画業を紹介する展覧会など、フェミニズムの観点から美術史に埋もれた存在に光を当てる動きが活発化している流れの中に、この映画はある。