可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』

瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』〔文春文庫せ-8-3〕文藝春秋(2020)を読了しての備忘録

高校2年生の森宮優子は、近隣の短大に進学して栄養士になるつもりだ。進級前の進路面談で担任の向井から悩みを打ち明けるように促される。それというのも優子は複雑な家庭事情を抱えていたからだ。母親は優子が3歳になる前にトラックに撥ねられて亡くなり、優子が小学校3年生になる際に父親の水戸秀平は梨花と再婚した。父親が仕事でブラジルに渡ると、優子は離婚した梨花と日本に残ることにする。優子の小学校卒業と同時に梨花は裕福な泉ヶ原茂雄と再婚。だが半年も経つと梨花は家を空けるようになる。優子の中学校卒業を機に梨花は離婚して同窓会で再会した一流企業の会社員・森宮壮介と再々婚する。ところが梨花は2ヵ月で家を飛び出し、一方的に離婚してしまう。優子は血のつながらない20歳差の森宮の娘となって2年しか経っていなかった。だが優子からすればどこかズレた父親像を抱いて父親業に邁進している「森宮さん」との関係に特段の問題は無かった。高校3年生になった優子は級友の浜坂から積極的にアプローチされる。優子にその気がないことを知った友人の萌絵から浜坂との間を取り持つように頼まれたが、優子は期待に応えることができなかった。優子はクラスの女子から無視されてしまう。

優子の高校生活最後の1年間を中心に描く第1部と、短大卒業後を描く第2部の2部構成。いずれも優子の視点で描かれる。その本篇の前後に、プロローグ、エピローグとして森宮の語りが置かれている。

 なんでも話すようにと、昔から何度も私は先生たちに言われてきた。担任だけじゃない。保健の先生やスクールカウンセラーの先生までが、こまめに私に声をかけてくれた。先生たちは、いつだって私が悩みを打ち明けるのを待っているのだ。私に必要なのは、悩みだ、悩み。これだけ手を広げて受け止めようとしてくれてるのに、何もないのでは申し訳ない。こういうときのために、悲惨な出来事の1つくらい持ち合わせておかないといけないな。とりあえず悩みをでっちあげてこの場を乗り切ろうとかと思ったけど、鋭い向井先生には見透かされてしまうだろう。困っていることを挙げるとすれば、まさにこういうときだ。普通に毎日を過しているだけなのに、期待を裏切っているようで肩身が狭くなってしまう。無理した覚えなどないのに、元気なだけで気遣われてしまう。平凡に生活していることに引け目を感じなくてはいけないなんて、それこそ不幸だ。(瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』文藝春秋〔文春文庫〕/2020/p.10-11)

父親と母親とが1人ずついるのが普通なのであって、母親2人、父親3人でかつ父子家庭の優子は普通じゃなくて可哀想。そのような周囲の眼差しこそが優子の普通を普通でなくしてしまう。

 「優子、男好きだよね。優子のお母さんって、2回旦那替えてるんだっけ。血は争えないよねー」
 隅田さんが言った。私と中学校が同じだった子にでも聞いたのだろうか。私は自分の生い立ちをことさら話しはしないけど、隠してもないから、保護者は何度か替わったのを知っている子も何人かいる。
 「2回ってすごいよね。でも、その母親も今はいないんでしょう」
 「ややこし。誰が本当の親かわかんないんじゃないの?」
 隅田さんと矢橋さんはそう言って笑ったけれど、教室はさっきまでとは打って変わってしんとなっていた。
 きっと、2人が家族のことに触れだしたせいだ。みんなうつむいたり、他のことに気を取られているふりをしたりしている。なぜか家庭のことに踏み込むのはいけないことだと、みんな思っているようだ。私自身は、親のことを痛くもかゆくもないのだけど。
 「それで、今は若い父親と2人で暮らしてるんでしょう。ひくわー」
 「優子、父親とできてたりして。こわ」
 2人は周りが静まっているのに気づかず、話を続けている。聞いていないふりをしているけど、みんな耳を澄ましている。とりえあえず、事実だけははっきりさせるべきかな。ああ、たいした話じゃないのに、必要以上に注目を浴びてしまう。保護者がころころ替わる弊害はこういうのだよな。さっさと端的に説明してしまおうと私は口を開いた。
 「えっと、その何回も旦那を替えているっていう母親は2番目の母親だから血はつながってないんだ。で、生みの親ははっきりしてるんだよ。母親は小さいころ亡くなって、父親は海外に行ってしまったから身近にいないんだけどね。母親が2人、父親が3人いるのは事実だけど。で、なんだっけ? あ、そうそう。今の父親。年が近いって言っても、もう37歳だよ。それに、どこか変わっている人というか、とても恋愛関係になりそうな人じゃないから。血も繋つながってない私の面倒を見てくれるいい人だけど……。これで、以上かな?」
 私が説明し終えると、「すげ-」「えーそうなんだ」などという声が教室から漏れた。矢橋さんと隅田さんは少々面食らっている。やっぱり、おおげさになってしまったようだ。
 「たいした話じゃないんだよ。親が替わっただけで、私は何も困ってないし」
 私が慌ててそう付け加えると、
 「つえー」と誰かがそう言うのが聞こえた。
 「森宮ってなんか底力みたいのあるよな」
 「やっぱ、家庭の変化が激しいと自然とそうなるんだな」
 後ろの席では男子がこそこそ話している。(瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』文藝春秋〔文春文庫〕/2020/p.133-135)

保護者が替わるのがいつも春だったために、優子は春が来る度に落ち着かない気分になってきた。高校卒業を迎えた優子は今の家族を大切にしたいという思いを強く抱いている。

 森宮さんと暮らし始めて、3年。その年月が長いのか短いのかよくわからない。親子という関係が築けたのかは不明だし、この先何年暮らそうとも森宮さんをお父さんとは呼べそうにはない。ただ、私の家はここしかない。
 森宮さんが腹をくくってくれたのと同じ。私だって覚悟をしている。1つ家族が変わるたびに、誰かと別れるたびに、心は強く淡々としていった。でも、今の私は家族を失うことが平気なんかじゃない。万が一、森宮さんが私の父親でなくなるようなことが起きれば、暴れてでも泣いてでも阻止するだろう。醜くなって自分のどこかが壊れたってかまわない。いつも流れに従うわけにはいかない。この暮らしをこの家を、私はどうしたって守りたい。(瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』文藝春秋〔文春文庫〕/2020/p.316)

優子は、学校であったことは親に話すようにしていた。

 (略)実の親じゃないからかまえずに気安く話せるのか、実の親じゃないから話さないと伝わらないと思うのか、どの親の時も聞かれたことは答えるようにしていた。(瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』文藝春秋〔文春文庫〕/2020/p.124)

森宮は甲斐甲斐しく食事を作る。優子は森宮と食卓を囲むことでコミュニケーションを取り、関係を構築していく。文字通り、同じ釜の飯を食うのである。優子は食の道を志すようになる。だが優子には食とともに、否、食以上に大きな力を感じているものがある。それが音楽だ。

 おいしい食事も励ましの言葉も誰かが差し伸べてくれる手されも受け付けなくなったとしても、音楽は心や体に入っていくだろう。(瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』文藝春秋〔文春文庫〕/2020/p.384)

優子は合唱祭のピアノ伴奏を担当することになり、家で練習を重ねる。森宮は優子の伴奏に合わせて歌う。
食事や音楽に象徴される、場と時間の共有が人と人との関係を作り上げる。