展覧会『真珠―海からの贈りもの』を鑑賞しての備忘録
渋谷区立松濤美術館にて、2020年6月2日~9月22日。
英国と日本のアクセサリーを中心に真珠の歴史を展観。
地下1階の第1展示室では、イギリスで制作された真珠のアクセサリーを中心に、主にヨーロッパにおける真珠の受容史を展観。「序章:古代の真珠装身具」では紀元前3世紀から紀元後3世紀にかけてのイラン、イタリア、シリア、パキスタンで制作された真珠のイヤリングやネックレスなど計11点を、「1章:ルネサンスからロココへ」ではヨーロッパ人によるインド航路航海やアメリカ大陸到達以降18世紀にかけてのヨーロッパに真珠が大量にもたらされた時代のイギリスの真珠のアクセサリー9点を、「2章:ジュエリーが花開いた19世紀の真珠」では微細な真珠(シードパール)や半円真珠(ハーフパール)が人気を博した19世紀の真珠のジュエリー52点を、「3章:19世紀末から20世紀初頭―ひろがる真珠装飾の世界」ではアーツ・アンド・クラフツからアール・ヌーヴォーへと連なる時期の真珠のジュエリー7点を、「4章:代表的な真珠貝と天然真珠」では代表的な真珠貝であるアコヤ貝・シロチョウ貝・クロチョウ貝とその分布を、それぞれ紹介する。
2階の会場では日本列島における真珠の歴史を展観。サロンミューゼでは、「5章:日本のいにしえの真珠」で養殖業の始まる近代以前の真珠との関わりを列島最古の真珠遺物「トリハマ・パール」や大村藩の真珠事業などを、「6章:真珠王 御木本幸吉―日本の真珠装身具の黎明」では世界に先駆け真珠養殖技術を発明し独占していた日本の養殖真珠のアクセサリー23点を紹介。特別陳列室では「7章:人の手からうまれた真珠たち―養殖真珠」として真珠の養殖についての解説が行われる。
「序章:古代の真珠装身具」
イランの《真珠金粒付き耳飾り》、イタリアの《山猫の耳飾り》など、紀元前3世紀から紀元後3世紀にかけての真珠のアクセサリーを紹介。図版での紹介だが、ポンペイの女性のモザイク画(ナポリ国立考古学博物館)に描かれた大粒(解説によれば直径7~8mm)の真珠が数珠繋ぎになったネックレスの希少性に思いを馳せた。
古代オリエントにおける真珠の産地はふたつあった。アラビア湾と南インドのマンナール湾である。アラビア湾にはアコヤガイとクロウチョウガイが生息しており、マンナール湾にはアコヤガイが生息していた。これらの地域の人々はこうした真珠貝が生み出す真珠を珍重していたが、その真珠に憧れるようになったのがヨーロッパ人だった。美しい海の真珠はヨーロッパでは採れなかったのである。真珠は宝石のなかの宝石となり、コショウ同様、オリエントを代表する高価な特産品となった。(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.47)
「1章:ルネサンスからロココへ」
ヨーロッパ人のインド航路航海やアメリカ大陸到達を行った「大航海時代」以降ヨーロッパに真珠が大量にもたらされた。17世紀から19世紀にかけてのイギリスの真珠のアクセサリー9点を紹介。図版での紹介だが、《珊瑚採り(アメリカ大陸発見の寓意)》(ボルケーゼ美術館)が新大陸から真珠がふんだんにもたらされたことを今日に伝える(なお、真珠採取がアメリカ先住民絶滅の原因となったことについては、山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.82-86を参照)。エリザベス1世が13歳頃の肖像画も図版で紹介されている。
大航海時代、ヨーロッパ人は新世界の真珠と旧世界の真珠を支配するようになった。ベネズエラやパナマの真珠はセビージャ(セビリア)に送られ、バハレーン島、インド、セイロン島の真珠はリスボンに送られた。(略)
(略)
〔引用者補記:《アルマダ・ポートレート》に描かれた〕エリザベス女王は、大粒のドロップ型真珠を並べるように髪に飾り、首を絞めるようなラフ(レースの襟)をつけ、その下に六連の大粒真珠をのネックレスをつけている。真珠といえば品よく美しいものなのに、使い方次第では奇抜な出で立ちになることも示している。女王の過剰な真珠は、当時、大量の真珠がヨーロッパに入っていたことを示すものだろう。
興味深いのは、ドロップ型真珠や大粒真珠は、カラーで見ると、灰色や鉛色に描かれていることだろう。これらの真珠はおそらくパナマのクロチョウ真珠だろう。実際、女王の右手は地球儀のパナマ地峡あたりに置かれている。その地域こそが大粒で灰色の真珠の産地であり、ポトシの銀が運ばれてくるところだった。肖像画はその地の領有をほのかめかしているようにも思われる。(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.94-95)
《バロックパールブローチ「双頭のアザラシ」》はバロック真珠を「双頭のアザラシ」に見立てたもの。
大航海時代になると、いびつな大粒真珠いびつな大粒真珠も知られるようになった。
クロチョウガイは円形の大粒真珠やドロップ型真珠ばかりでなく、ゆがんだ真珠も作り出す。フィリピンなどに生息する世界最大のシロチョウガイなども同様である。天然真珠時代は変形真珠のほうが多かった。
インドではそうした真珠の需要も高かった。そのためゴア在住のポルトガル人はアラビア湾クロチョウガイの真珠を入手しては、せっせとインドに運んでいた。いびつな真珠はポルトガル語では「バローコ」と呼ばれたが、フランスなどに入って「バロック」となり、17~18世紀の芸術の一様式の名称となった。
(略)
このように大航海時代は大小さmざままな真珠が知られるようになったが、バロック真珠はバロック真珠で、ヨーロッパの金銀細工師たちの想像力を刺激した。ゆがんだ真珠のユニークな形状をどのように使うかが、彼らの腕の見せどころだった。(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.98-99)
《ヘンリエッタ・マリアの肖像》(サンディエゴ美術館)の図版が紹介されている。チャールズ1世の王妃ヘンリエッタ・マリアは、2つのパール・イヤリングを段違いに身につける装いを考案した人物だという。なお、チャールズ1世の時代、イギリスはアコヤガイの産地であるペルシア湾岸のバンダレアッバースに商館を有した(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.97-98)。
「2章:ジュエリーが花開いた19世紀の真珠」
微細な真珠(シードパール)や半円真珠(ハーフパール)が人気を博した19世紀の真珠のジュエリー52点(イギリス37点、フランス10点、イタリア4点、オーストラリア1点)を紹介。
19世紀になると、イギリスはついに真珠の産地を手に入れた。イギリスといえば真珠好きで名高いエリザベス1世をうみ出し、その家臣たちはベネズエラの真珠の産地マルガリータ島の攻撃を試みて失敗したことがあった。それから300年後、イギリスはセイロン島とアラビア湾(ペルシア湾)というオリエントの二大産地を手中にしたのである。(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.107)
《シードバールティアラ》は「シードパール」と呼ばれる微細な真珠と大粒の真珠とで花などを表したティアラ。「シードパール」はどのように採取されたのであろうか。
〔引用者補記:セイロン島では、イギリスの植民地政府が取得した真珠貝が競りにかけられた。インドの〕真珠商が買った真珠貝は居住区から少し離れた囲いのある敷地に運ばれる。そこで数日間放置されると、貝の身は腐っていき、あたりを飛び回る大量のハエが卵を産みつける。その後、貝は丸木舟に移され、放置される。するとその間に卵から孵化したウジ虫が貝の身を食べていく。時期を見計らって丸木舟に水を張ると無数のウジ虫が浮かびあがる。それらを流し去った後、クーリー(下級労働者)たちが手作業で貝殻から貝の身の残余物を落としていく。再び水を加え、さまざまな浮きカスを流し去る。これを何度も繰り返すと、最後には砂や貝殻の破片に混じって真珠が残っているという次第である。これらを集めて、綿布の上で乾かした後、ひとつずつ真珠を拾っていく。
話を聞くだけで気持ちが悪いが、私たちはこの作業をイメージするとき、貝の腐る匂い、腐乱した貝の肉やウジ虫の触感も付け加えなければならないのである。ただ、このセイロン方法は完璧だった。1~2ミリのシードパール(種のような真珠)やダストパール(ほこりのような真珠)まで一粒残さず集めることができた。(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.111-112)
「3章:19世紀末から20世紀初頭―ひろがる真珠装飾の世界」
アーツ・アンド・クラフツからアール・ヌーヴォーへと連なる時期の真珠のジュエリー7点を展示。
1910年代、真珠のネックレスはどんどん長くなり、真珠の値段も上がっていた。
(略)
1911年2月の『ニューヨーク・タイムズ』紙は「真珠はダイヤモンドより高くなった」という見出しを掲げ、「ロンドンの専門家によると、真珠の価格の継続的な値上がりは、真珠をダイヤモンドよりも貴重なものにしつつあるが、すでにタイプによっては、ダイヤモンドより貴重になった」と報道した。高騰の理由は、昨今は真珠の需要が供給よりも多いうえ、インドとセイロン島ではかつてほど真珠が採れなくなっているのがその理由だった。7月の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、マルボロ公爵夫人が1894年に2万2000ドルで買った真珠のネックレスがロンドンのオークションで8万500ドルで落札されたと報道している。
1912年3月、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、真珠の価格は2倍になったと報じ、真珠が買い占められ、真珠市場が操られている可能性を指摘した。9月には「10年前はだれでも好みのサイズや品質の真珠を買うことができたが、今日では20グレーン(9ミリ相当)以上の真珠が1個市場に出ると、レンブラントの絵が美術市場に出るのと同じくらいの大騒動となる」と報道した。
実際、真珠のネックレスはレンブラントより高くなっていた。1920年、チェース・ナショナル・バンクの副頭取は自分の花嫁のために29万2000ドルで真珠のネックレスをティファニーから購入した。1927年にはレンブラントの作品「ティトゥス」がオークションで落札されたが、その価格は27万ドルだった。17世紀の巨匠の名画も真珠のネックレスには形なしだった。(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.111-112)
「4章:代表的な真珠貝と天然真珠」
代表的な真珠貝であるアコヤ貝・シロチョウ貝・クロチョウ貝とその分布を紹介。
真珠貝とは、外套膜外側の上皮細胞に真珠質を分泌する機能を有する貝で、貝殻内面に光沢ある真珠層を形成する。アコヤガイは殻高7センチ程度の真珠貝。海水温度に敏感で、最適温度は23~25度、13度以下で冬眠、28度を超えると死ぬ貝が増える。アラビア湾、紅海、マンナール湾、ベネズエラ沖、日本では九州沿岸、英虞湾などに生息。クロチョウガイは殻高20センチ程度の真珠貝。グレーや鉛色、バロック真珠を多く生み出す。紅海とアラビア湾、タヒチ、ハワイ、日本では沖縄や南九州に生息。シロチョウガイは殻高が30センチに達するものもある世界最大の真珠貝。オーストラリア、フィリピン、インドネシア、ミャンマーなど(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.2-14)。
「5章:日本のいにしえの真珠」
日本における近代以前の真珠との関わりを紹介。福井県の鳥浜貝塚から出土した最古級の淡水真珠「トリハマ・パール」や、江戸時代に大村藩が行っていた真珠事業を紹介。大村藩には貝玉奉行が置かれ、大村湾のアコヤガイを独占した。真珠は薬と考えられており、肉は藩主の食用とされた。藩主が食した貝に含まれていた真珠「御喰出し」2点(大村純保、大村純鎮)が展示されている。
江戸時代は、アコヤガイのケシ真珠が薬として使われるようになった時代でもあった。
そのきっかけになったのが、1596年ごろに中国の明の李時珍が刊行した『本草綱目』だった。『本草綱目」は自然界の動植物がどのように薬に使えるかを列挙した薬物研究書で、真珠については、粉にして用いれば、心を静め、目をはっきりさせ、肌に潤いを与え、聾を治し、濁った精液を清くし、天然痘を解毒する高価のあることが記されていた。
李時珍の『本草綱目の影響は大きく、日本でhも江戸時代に本草学が盛んになり、それにともなって、薬用真珠の概念も普及していった。もともと真珠は93パーセントが炭酸カルシウムなので、サプリメントとしても最適だった。ただ、中国の真珠は淡水真珠だったが、日本では宝石としても使えるアコヤのケシ真珠がすりつぶされ、服用されることになった。
(略)
大村藩はアコヤガイの採取を班の独占事業にしており、一般の人々には貝を採ることも、食べることも固く禁じていた。藩には貝の玉取り奉行という役職があり、その人物が各浦から集めた真珠を藩庁に納めていた。1年に銀100枚の報酬が支払われる高給職だった。
真珠貝採取は潜水夫を雇用して実施した。貝を剥くときは、作業員がごまかさないように、彼らを一ヵ所に集め、集団で監視させていた。丸く美しい真珠は貝の外套膜のなかにあることが多いので、日本ではそこだけを探していた。
真珠の販路については詳しい記録が残っていないが、所望する長崎の唐人に払い下げたり、大阪の蔵屋敷に運び、中央で売却していたようである。
大村藩はアコヤガイ保護にも熱心で、しばしば禁漁期間を設けたり、石や瓦を海底に投入してアコヤガイの生息環境の改善にも取り組んでいた。真珠の生産量が増加すると、薬用真珠も生産されるようになった。大村湾の真珠膏、真珠丸はそれぞれ目薬と解熱剤のことで、江戸時代末期に人気を博した商品となった。(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.152-154)
「6章:真珠王 御木本幸吉―日本の真珠装身具の黎明」
世界に先駆け真珠養殖技術を発明し独占していた日本の養殖真珠。「真珠王」と呼ばれた御木本幸吉の御木本真珠店が制作したアクセサリー23点を紹介。
御木本幸吉は海産物商だったが横浜港で真珠が高値で取引されているのを目撃して真珠の養殖を目論んだ。大日本水産会の柳楢悦、東京帝国大学の箕作佳吉らに指導を受けつつ養殖実験を開始し、1893年に半円真珠の養殖を実現する。装飾品としての加工の仕方によっては真円真珠である必要は無いとの慧眼が御木本幸吉を「真珠王」にした。
なお、真円真珠の養殖を実現したのは見瀬辰平である(見瀬辰平については、山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.173-179)。
「7章:人の手からうまれた真珠たち―養殖真珠」
真珠養殖の過程について、道具や写真などで解説が行われる。貝の内面に仏像を象った突起を持つカラス貝「仏像真珠」の展示も。
1868年、日本は明治の世となった。新生明治政府が直面したのは、極度の貿易赤字だった。殖産興業が唱えられ、外貨を稼ぐことが急務となった。そうしたなか、水産学の研究者たちが目を向けたのが真珠だった。
1883年の『大日本水産会報告』には高松数馬という人の「真珠介ノ説」が掲載されている。高松は、真珠は宝石のひとつであり、その価格がきわめて貴く、実に貴重なる水産物のひとつである、日本にも真珠貝は存在するが、保護や蕃殖(繁殖)を計らなければ、減少または絶滅の怖れがあると警鐘を鳴らしている。さらに高松は、中国では淡水真珠貝に金属製や貝製の丸玉や彫刻物を入れ、貝を十ヶ月から三年飼育して、真珠を作っていることも報告している。
実際、中国では12世紀の『文晶雑録』にすでに11世紀に真珠が作られていたことが記されている。中国の真珠は、淡水産カラスガイを使った貝付きの半円真珠や仏像真珠のことだった。貝殻内面に1センチ前後の半円形(半球形)の鋳型や仏像型の鋳型を張りつけるように並べておくと、外套膜の外側上皮細胞が真珠質を分泌するため、次第に真珠質で覆われていく。これが貝付き半円真珠、貝付き仏像真珠のことである。(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社〔中公新書〕/2013年/p.154-155)
山田篤美の『真珠の世界史 富と野望の五千年』は、図版、地図などが適切に配され読みやすい真珠の歴史の概説書。世界の真珠をめぐる争い(天然真珠の時代と、日本における養殖の実現を経て、真珠養殖業の競争へ)、江戸時代まで薬用にしか注目されていなかった真珠が外貨獲得の柱として近現代日本の経済を支えたことなどを丁寧に解説している。邪馬台国論争やフランシスコ・ザビエルとの真珠のつながりなどのエピソードも大変興味深い。
女性誌『anan』2020年9月16日号(2216号)の表紙は、5連の真珠のネックレスがかかる胸をレザーのグローブで抱える三吉彩花が飾った。素肌に真珠の輝きはよく調和する。その魅力に拮抗する、三吉の美貌が凄い。