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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『サーリネンとフィンランドの美しい建築展』

展覧会『サーリネンとフィンランドの美しい建築展』を鑑賞しての備忘録
パナソニック留美術館にて、2021年7月3日~9月20日

フィンランド出身の建築家エリエル・サーリネン(1873-1950)について、パリ万国博覧会フィンランド館(1900)での華々しいデビューから渡米するまでのフィンランド時代の作品を紹介する企画。「プロローグ:サーリネンの建築理念を育んだ森と湖の国、フィンランド」、「第1章:フィンランド独立運動期―ナショナル・ロマンティシズムの旗手として」、「第2章:ヴィトレスクでの共同制作―理想の芸術家コミュニティの創造」、「第3章:住宅建築―生活デザインの洗練」、「第4章:大規模公共プロジェクト―フィランド・モダニズムの黎明」、「エピローグ:新天地アメリカ~サーリネンがつないだもの」の6つのセクションで構成される。

ティルジット条約締結後、ロシア皇帝アレクサンドル1世は、フランス皇帝ナポレオン1世から、大陸封鎖令に従わないスウェーデンを攻撃するよう求められ、スウェーデンフィンランドに侵攻した(1808年)。戦争はロシアの勝利に終わり、600年続いたスウェーデン統治は終了、ロシア皇帝フィンランド大公を兼ねるフィンランド大公国が成立した(1809年)。1855年に即位したアレクサンドル2世(1818-81)はロシアの近代化を推進するとともに、フィンランド自治権を拡大した。1863年にはフィンランド語がスウェーデン語と並ぶ言語となった。エリアス・ロンルート(1802-1884)が(主にロシア・カレリア地方で)フィンランド語の口承詩を採集して1831年に出版した叙事詩『カレワラ(Kalevala)』(1849年に新版)は、1880年代にはフィンランド民族文化を象徴するまでになり、フィンランド独自文化を模索する「カレリアニズム」運動が勃興した。ところが、1890年代に入ると、ドイツ帝国に対する防衛の必要からフィンランドがロシア化されていく。1899年の「二月宣言」により自治権が制限され、1900年の言語宣言でロシア語が行政に導入され、1901年には独自軍が廃されてロシア帝国軍に組み込まれた。(石野裕子『物語 フィンランドの歴史 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年』中央公論新社中公新書〕/2017年/p.53-89参照)

【プロローグ:サーリネンの建築理念を育んだ森と湖の国、フィンランド
エリエル・サーリネンとその建築を写真で紹介するとともに、「カレリアニズム」運動を象徴する民族叙事詩『カレワラ』を、アクセリ・ガレン=カレラの絵画数点で紹介する。なお、アクセリ・ガレン=カレラによる『カレワラ』をモティーフにした絵画は、1900年パリ万博のフィンランド館やフィンランド国立博物館の天井を飾ることになった。規模は異なるものの、チェコにおけるアルフォンス・ミュシャの《スラヴ叙事詩》に相当するものと言える。

【第1章:フィンランド独立運動期―ナショナル・ロマンティシズムの旗手として】
ヘルシンキ工科大学で建築を学んでいたエリエル・サーリネンは、学友のヘルマン・ゲセリウス(1874-1916)とアルマス・リンドグレン(1874-1929)とともに設計事務所「ゲゼリウス・リンドグレン・サーリネン(Gesellius-Lindgren-Saarinen)」を起ち上げ、1900年パリ万国博覧会において、ロシア帝国の展示館とは別に設置されるフィンランド大公国の展示館の設計競技で1位を獲得した。展示館の模型、写真、建物内外を再現したCG映像に加え、館内に設けられた手工芸品の展示室「イーリスの間」に置かれたイーリスチェア、壁掛け、織物、焼き物などを紹介。また、パリ万博参加で設立機運が高まったフィンランド国立博物館の設計競技でもGLSの応募案「カール12世」が勝利しており、写真や複製された設計図で紹介されている。併せて、GLSが手がけた最初の商業建築ポポヨラ保険会社ビルティングも写真で紹介されている。動物などの彫像が建物の装飾として配されているのを見ると、エリエル・サーリネンと同時代人である伊東忠太(1867-1954)を思わずにいられない。

【第2章:ヴィトレスクでの共同制作―理想の芸術家コミュニティの創造】
GLSは、ヘルシンキの西方25kmに位置するヴィトレスク湖畔にアトリエと共同住宅とを兼ねた「ヴィトレスク」を建設した(1903年)。ウィリアム・モリスの自宅兼アトリエとしてフィリップ・ウェッブが設計した「レッド・ハウス」(1860年)の影響があるという。図面の複製や写真とともに、アームチェア、燭台、ガラス食器などを展示している。ヘルマン・ゲセリウスの妹でエリエル・サーリネンと結婚したロヤ・サーリネン(1879-1968)のテキスタイル・デザイナーとしての事績についてもここで紹介されている。

【第3章:住宅建築―生活デザインの洗練】
ヴオリオ邸、ウーロフスボリ集合住宅・商業ビルディング、エオル集合住宅・商業ビルティング、スール=メリヨキ荘、ヴィットゥールプ荘の写真や図面を通じて、住宅建築の作例を示す。また、テーブルクロスやテキスタイル、椅子などのデザインも併せて紹介されている。エリエル・サーリネンが画技に秀でており、スケッチが顧客を獲得するツールともなったこともここで指摘されている。

【第4章:大規模公共プロジェクト―フィランド・モダニズムの黎明】
エリエル・サーリネンが設計競技で1位となったヘルシンキ中央駅の駅舎について、図面や写真、調度品で展観する。国会議事堂計画案、ムンキニエミ=ハーガ住宅開発計画、カレワラ会館などアンビルドの図面や、実際に発効された紙幣のデザインも併せて紹介されている。

 1900年にはフィンランドの人口は266万人に達した。この100年間で180人以上増えたことになる。なかでもその伸びは地方で見られた。だが、人口増に見合うほど仕事はなく、職を求めて海外移民の道を選ぶ者たちもいた。その数は1866~1930年の間で39万人と言われる。当時、海外移民はヨーロッパ各地で見られた現象であり、かつての統治国スウェーデンからは総計120万人が移民として海外に渡ったと言われる。
 フィンランド人の主な移民先は北アメリカ、オーストラリア、アルゼンチン、ロシア本国であった。なかでも北アメリカには19世紀半ばから1914年までに33万人が移り住んでいる。その大半はフィンランドに気候が類似するアメリカのミシガン州ミネソタ州だった。彼らの多くは肉体労働者として働き、独自の共同体を形成した。(石野裕子『物語 フィンランドの歴史 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年』中央公論新社中公新書〕/2017年/p.86-87)

【エピローグ:新天地アメリカ~サーリネンがつないだもの】
1917年、ロシア帝国皇帝ニコライ2世が退位した後、フィンランドは独立を果たすが、資本家と労働者の対立から内戦に突入する。実施作例が乏しくなったエリエル・サーリネンは、1922年、シカゴ・トリビューン本社ビルの国際設計競技で2等を獲得すると、翌1923年に家族とともに渡米した。1925年からはジョージ・ブースとその妻エレン・ブースが創設したクランブルック・エデュケーショナル・コミュニティ(ミシガン州)で仕事をすることになる。1930年代からは息子エーロ・サーリネンとの共同事務所を構え、ファースト・クリスチャン教会の設計などに当たった。エーロ・サーリネンのデザインした椅子なども展示されている。