可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 田中良太個展『素粒子』

展覧会『田中良太個展「素粒子」』を鑑賞しての備忘録
長亭GALLERYにて、2021年6月12日~20日

素粒子》と《量子もつれ》という物理学の用語をタイトルに冠した2点を含む大画面作品(80号~200号)5点と小さな画面の作品(0号)4点に、エスキースなどを加えて構成される田中良太の絵画展。

《因数》(2021)は、正方形の画面(S100号)のほとんどを占める、黒とピンクの2面を見せる直方体らしきものが書割のようにのっぺりとした青空を背景に描かれている。直方体と断定できないのは、底面が見えず2面しか表されていないため、黒の壁ないし板とピンクの壁ないし板とを(ピンクに対して黒の幅がかなり狭いが)2曲一隻の屏風のように繋ぎ合わせた可能性を否定できないからだ。ピンクの面の周囲は灰青で地面や砂山、ジェットノズルを手に散水するヘルメット姿の作業員、奥には養生シートで覆われた工事用仮囲いから2本の樹木と直方体の建物が姿を見せている。作業員と仮囲いの間には紫色で表された油圧ショベルがある。黒の面の周囲は薄い茶色で地面や、杭とロープなどが描かれ、奥には砂山と2本の樹木、さらにその先に防護シートで覆われた木立が見える。周囲の写実的な描写によって、黒とピンクの幾何学的な物体がフィクション性が強調され、ルネ・マグリットを連想させるような独特な雰囲気が画面に漂う。散水の作業は、ピンクの壁の中に向けて行われており、防水シートのように機能する壁の内部では何かが解体されているのかもしれない。その場合、「因数」は解体された断片のメタファーとなろう。また、画面右奥に見える仮囲いの向こうの直方体の建築物と、画面中央の直方体とは、2本の樹木が立っている点も含めて、似通っている。否、2つは区別不能なのだ。本展のタイトルは「素粒子」なのだから。

 これは確率の問題です。ふたつのボールをA、Bと呼ぶことにしましょう。左にボールA、右にボールBが入っている状態を(A, B)、左に両方のボールが入っている状態を(AB, 0)などと書くことにすると、ボールの入り方は(AB, 0)、(B, A)、(0, AB)の4通りです。左の部屋にあるボールの数が0個なのが1通り、1個なのが2通り、2個なのが1通りなので、左の部屋に0個、または2個のボー0ルが入っている確率はどちらも1/4、1個のボールが入っている確率は1/2です。賞金をもらいたければ、迷わず1個に賭けるべきです。
 さて、今の考察で最も大切なのは、2個のボールが原理的に区別できることを暗黙のうちに仮定したことです。(略)
 普通のボールではあり得ませんが、もし2個のボールが原理的にすら区別できない存在だったらどうでしょう? この場合、左右の部屋に1個ずつボールが入っていたとしても、その2個のボールには区別がないので、左右のボールを入れ替えても同じ状態です。となれば、左の部屋に2個のボールが入っている状態を(2, 0)のように表したとすると、ボールの入り方のパターンは、(2, 0)、(1, 1)、(0, 2)の3通りです。この場合、左の部屋に入っているボールの数が2個でも1個でも0個でも、それが実現される確率は等しく1/3なので、0から2までどの個数に賭けても確率は1/3で賞金がもらえることになります。ボールが区別できるときとできないときでは実現される確率が違うのです。
 なぜこんな話をしたかというと、この確率の違いが量子の驚くべき特性を浮き彫りにしてくれるからです。量子の代表として2個の光子を考えましょう。光子をつまめるピンセットを使って光子を1個つまんで元に戻したとします。その後でもう一度光子をつまみました。そのときにつまんだ光子はさっきと同じ光子でしょうか? それとも違う光子でしょうか?
 もし光子が古典的なボールと同じような存在なら、つまみ上げた光子が他の光子とどれほど似ていても原理的には区別がつくはずです。または、つまみ上げた光子に印がつけられるならそれでもよいでしょう。ですが、今の相手は光子です。野球ボールなら、どんなに精巧に作ったとしても、質量の差や細かい傷のパターン違いなどなど、無数の個性があるために原理的に区別できますが、光子の特徴は、電荷がゼロで質量もゼロ。他にまだ説明していない「スピン」という呼ばれる量がありますが、それを合わせても、光子を特徴づけるラベルは3つしかありません。光子は恐ろしく単純なのです。それでもなお、2個の光子は区別できるでしょうか。
 (略)中がふたつの部屋に分かれた光子を放り込める箱を用意して、そこにふたつの光子を放り込み、左の箱に入っている光子の個数を確認する、という実験を何度も行えば良いのです。もしも光子が区別可能な存在なら、左n箱に1個の光子が確認される頻度は0個や2個のときの場合になるはずですし、もしも光子が区別不可能な存在なら、0個、1個、2個のいずれも同じような頻度で観測されるはずです。
 もちろん、本当に光子が入る仕切の入った箱を用意するのは難しいので実験のプロセスは少し複雑ですが、本質的に同じ実験が実際に行われています。その詳細は省略しますが、そこから得られる結果は衝撃的です。恐ろしいことに、左の部屋に見つかる光子の個数が0個、1個、2個という状況が同じ割合で実現されることを示唆するのです。これは、2個の光子は真の意味で区別できないことを意味しています。
 ちなみのこの特性は、光子に限らず、あらゆる量子に共通です。すなわち、同じラベルを持つ量子は互いに区別ができないのです。徳に、光子や電子に代表される「素粒子」と呼ばれる量子を区別するラベルは、質量、電荷、スピンなど、せいぜい数種類にすぎず、ひとつひとつの素粒子にはそのラベル以外の個性が一切ありません。標語的に言うなら、素粒子は究極の没個性なのです。(松浦壮『量子とはなんだろう 宇宙を支配する究極のしくみ』講談社ブルーバックス〕/2020年/p.184-187)

《空っぽ》(2021)は、画面(F80号)の中央に、灰色の空を背景に、灰色と焦茶の面を持つ(底面は表されていない)直方体らしきものが描かれる。左手前に、ランプを載せたレンガあるいは石を組んだ柱と植栽があり、奥の木立(左手は翠、右手は青)との間、直方体らしきものの周囲には、未舗装の地面が広がっている様子が、空や「直方体」よりも濃い灰色で表されている。右手には2羽の鳩が佇んでいる。覆い隠す箱(「直方体」)を描くことによって、描くことの決してできない「空っぽ」(=不在)を描き出したと考えるのが素直だろうか。もっとも「空っぽ」をvacuum(真空)と捉えると、光と物質の相互作用の場として立ち現れることになるのかもしれない。

表題作《素粒子》(2020)は、青空を背景に焦茶と白みがかったピンクの面を持つ(底面は表されていない)直方体らしきものが描かれている(F130号)。焦茶の周囲には花壇や木立のある公園が紫色で表され、その中に立つ3体のヌードの銅像が緑色で表されている。画面の右手では花壇や木立が紺色で、銅像は赤で表されている。銅像は、「処理しやすく、互いにかみ合う標準的個体」となり、素粒子のように区別不能となった人間の姿の象徴である。

 平均とは、「正常」であるという意味である。逆に病気とは、それからずれているということである。身体のさまざまな器官のどこかで、具体的には指摘できないにしても、その数値を平均から逸脱させる問題事情が生じているから平均から外れるのであり、その数値が「異常」の徴候となって現れているとされるのである。
 ルネサンス期においても、発汗など病気のさまざまな徴候(しるし)が、病気の経過を示すものとして理解されていた。それは医師それぞれの見識による判断であった。しかし、19世紀以降になると、徴候間の関係が数値に置き換えられるようになり、正規分布(ベル型曲線)で表現されるようになった。だれにでも一目で分かるグラフによって与えられるようになったのである。
 とはいえ、そこで「正常」とされる数値自体は、病気でないことの保証ではないのはもちろんのこと、身体の何らかの状態についての根拠でもない。そのベル型曲線の中央、平均値に隣接するある一定範囲にあるおいうことにすぎないが、しかし同時にまた、平均に近いその範囲にあることが望ましいとされる。「正常」とは、そのような奇妙な概念である。ヒュームが「存在から当為を引き出してはならない」と警告していたが(『人間本性論』第3篇第1章第1節)、まさに統計学的判断は、現象を説明しているだけではなく、目指すべき目標を示している。
 「正常」は、事実でもあれば、価値でもある。正常であるからといって、身体の各器官がそれぞれ完全に機能し、相互に調和している状態なのかどうかは分からない。それは調べようがない。ただ、検査によって数値を得て、その統計をとり、十分に多くのひとの平均値に応じて「正常」と判定されるだけである。しかも、正常とされる数値が「よい」とされるのは、患者の身体の状態に対してだけではない。健康であるとされる平均的なひとの数が統計的に増えるという意味によってでもある。
 この思考様式(エピステーメー)は産業界においても同様であった。大量生産が普及するにつれて「標準」という概念が成立する。これは、たとえばボルトのネジの精度が、どのナットともかみ合う一定範囲に収まるように制作されなければならないところから生じた概念である。
 それぞれが交換可能なボルトとナットとして製作される場合、精度には限界があるのだから、真に完全に合致するボルトとナットは存在しない。しかし、それを目指して製作すると、誤差は正規分布に応じた結果となる。それを一定範囲に収め、交換可能であるように、すなわち相手を変えてもかみ合うように製作されたものが標準、すなわち「正常」であり、そうでないものが不良とされる。その関係が確立されたのが、19世紀末、ロンドン万博におけるコルト社の拳銃においてだったという。
 さらにそれは、社会の諸制度や諸基準についても同様であった。たとえば身長が平均に近いひとには、電車の吊革の長さの標準が対応しているので、それを摑みやすいという利点があるが、そのような意味で、社会には学歴や給与など、多数の指標による「吊革」があって、どれを摑むかによって人生が決まってしまうほどのものになっている。平均に近いができたら平均の右にずれた方が有利な場合が多い。「正常」とも「標準」ともいうが、現象を表現する単なる統計学的概念が、それ自体、いまの社会の1つの価値となっているのである。
 (略)
 実に「正常」とは、奇妙な概念である正常なものとして完全に平均的なものを提示する必要もないし、それがよいものである理由を示す必要もない。身体の器官や機械の部品や人間の振舞の規格に適用され、平均に近づくようにするとうまくかみ合い、効率的であるということで、社会に受け容れられている。(略)
 (略)
 以上のようにして、現代においては、確率論的思考が数学的言語と結びつき、統計学によって正規分布曲線が描かれるようになり、それが社会の具体的実線に適用された結果、「正常」が判断基準となり、かつ道徳的価値となったのであった。
 (略)
 統計学という学問自体に問題があるわけではない。測定の精度を調整するためには、産業においても自然科学においても、有効な道具である。問題は、統計学が政策に適用されるときに生じる。人間を群れとして測定し、「正常人」という、処理しやすく、互いにかみ合う標準的個体を増産する政策が策定される。政治に於いて、なぜそれが有効なのか?――それを受け容れるひとびとの側の倫理、およびそれから派生する思考がそれを支えるからなのである。(船木亨『現代思想講義 人間の終焉と近未来社会のゆくえ』筑摩書房ちくま新書〕/2018年/p.475-480)

量子もつれ》(2021)は、擁壁の上に鬱蒼と茂る樹冠を背景に、灰色と紫色の面を持つ(底面は表されていない)直方体らしきものが描かれる(F100号)。「直方体」の灰色の面の奥には猫の顔と前脚が、紫の面の奥には猫の後ろ脚や尻尾が覗いている。「量子もつれ」と題した作品に猫と箱(=「直方体」)を描き込む以上、「シュレディンガーの猫」を表すものと解して間違いない。

 まず、蓋を閉めれば中の様子は決してわからない頑丈な箱を用意します。その中に、半減期が1時間の放射性元素1個と、高精度の放射線センサーを入れます。このセンサーには毒ガスがセットされていて、放射線が検出されると中のがすが噴射されます。この箱の中に1匹の猫を入れて蓋を閉めて1時間待つ、というのが彼〔引用者註:エルヴィン・シュレーディンガー〕の考案した思考実験の内容です。(略)
 まず、放射性元素が崩壊していればアルファ粒子が放出されているため、センサーが反応して毒ガスが噴射されており、猫は死んでしまっています。一方、放射性元素が崩壊していなければ何事も起こらずに、猫は元気に生きていることでしょう。
 ここまではよいのですが、この思考実験のポイントは、半減期を迎えた放射性元素は、観測前は|崩壊〉+|未崩壊〉という重ね合わせ状態にあるということです。【崩壊】=【死んだ猫】、【未崩壊】=【生きている猫】という一対一対応ができている以上、観測前の猫は|死〉+|生〉という重ね合わせ状態にあることになります。そして今の場合、観測とは箱を開けることでしょう。ということは、箱を開ける前の猫は生死が確定せずに重なり合っていて、箱を開けて猫を観測した瞬間に重ね合わせが解け、その瞬間に猫の生死が確定したというのでしょうか?(松浦壮『量子とはなんだろう 宇宙を支配する究極のしくみ』講談社ブルーバックス〕/2020年/p.234-235)

「直方体」は、大和絵における「すやり霞」のような効果を、量子論的に(?)発揮することになる。2面に塗り分けられた「箱」(=「直方体」)は、「観測前の猫は|死〉+|生〉という重ね合わせ状態にあること」を表す装置として機能するのだ。