可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 チャペック『白い病』

カレル・チャペック『白い病』〔岩波文庫・赤774-3〕岩波書店(2020)を読了しての備忘録
Karel Čapek, 1937, "Bílá nemoc"
阿部賢一
3幕劇の戯曲。
付録として1937年刊の初版本に付された作者による「前書き」と生前未発表の作者による改題が収められている他、訳者による解説が付されている。

「白い病」は、未知の病原体が引き起こす感染症。ペイピンの病院でチェン博士が症例を初めて報告したため、「チェン氏病(モルブス・チェンギ)」と呼ばれる。45歳以上の者だけが感染し、初め皮膚にレンズ豆くらいの大きさの大理石のような感覚のない白い斑点が現れる。続いて傷口が開いて悪臭を放つようになり、3~5ヶ月後に敗血症による死に至る。世界で罹患者は1200万人、死者は500万人に上るが、治療法は未だ確立されておらず、末期にモルヒネを投与するくらいしか対処の仕様がない。国立リリエンタール大学病院の枢密顧問官ジーゲリウス教授のもとをガレーン博士が訪ね、白い病の治療法を開発したと言う。枢密顧問官は同様の来訪者に11名ほど会っていたので相手にしなかったが、義父リリエーンタール博士が一番弟子と可愛がっていた「ジェチナ(童子)」その人であると分かり、治療法を専権事項とするガレーン博士の臨床実験を受け容れる。ガレーン博士の治療法は目覚ましい効果を上げ、枢密顧問官は国立リリエンタール大学病院の成果として宣伝した。だがガレーン博士は、世界中の統治者が戦争を止めるための恒久平和条約を締結しない限り治療法を明らかにするつもりはないと記者に宣言して枢密顧問官と袂を分かち、自らの診療所に戻って貧しい者たちだけを相手に治療することにした。その頃、国家の総統でもある元帥は、隣の小国に侵攻しようと軍需企業クリューク社に兵器の増産を要求していた。同社を率いるクリューク男爵は元帥の戦友であり、要求以上の成果を上げていたが、「白い病」に蝕まれていた。

 病気は、架空の〈白い病〉ではなく、癌やほかの病気でもよかったかもしれない。だがじっさいの病気について考えたり、現実の国家や体制について考えたりしなくてよいように、筆者は、個々のモティーフ、戯曲の舞台を、可能なかぎりフィクションの領域へ移そうとした。それに加え、この病気を白色人種の深刻な衰頽の特徴としてある程度象徴的に感じていた。(カレル・チャペック阿部賢一〕『白い病』岩波書店岩波文庫〕/2020/p.158〔前書き〕)

〈白い病〉の別称の1つが「ペイピン病」であり、由来はペイピンの病院で症例が初めて報告されたためであるが、ペイピンとは、『白い病』刊行時の中華民国の首都「北平(Peiping)」(現在の北京)のことである。〈白い病〉が「白色人種の深刻な衰頽」とは、ヨーロッパが没落する一方、アジアが興隆するとの危機意識の表れであろう。それは第一次世界大戦によってヨーロッパの人々の意識に上っていたはずである。ポール・ヴァレリーの「ヨーロッパはアジア大陸の小さな岬になるだろう」がその典型例である。

(略)ここ数年、引用の頻度が急にあがっている〔引用者補記:ポール・ヴァレリーの〕表現がある。〈ヨーロッパはアジア大陸の小さな岬になるだろう〉という、もともとは「精神の危機」と題されたテクストに見出される表現である。「精神の危機は、1919年にイギリスの雑誌『アシニーアム』に英訳掲載されたテクストであり、手紙の形式をとっているのは、「パリからロンドンへ」という発信者と受信者の空間的な距離を意識したものである。1919年においてパリからロンドンに送られた手紙の持つ意味は明白である。同じ連合国として第一次世界大戦を戦い、これまでに経験したことのない規模の人的・経済的な損害によってすっかり疲弊したヨーロッパの二つの国。フランスやイギリスという「かつての真珠」がアジアやアメリカの勢いにおされてその覇権を失いつつあるこの危機を目の当たりにして、ヴァレリーは〈ヨーロッパはアジア大陸の小さな岬になる〉とかなり痛ましい口調で述べたのであった。
 (略)
 私たちに直接的に作用をおよぼす性質の言葉。ヨーロッパを〈アジア大陸の小さな岬〉と形容することの妙味は、地理的な意味での「事実」(ユーラシア大陸に占めるヨーロッパ地域の割合の小ささ)にもとづいて、国際社会におけるヨーロッパの政治的経済的文化的な影響力の減少についての隠喩を述べているという点にある。これをたとえば〈ヨーロッパは世界というデザート皿のサクランボにすぎなくなる〉と形容したならば、きわめてオーソドックスな隠喩を用いた比喩表現にとどまっていただろう。一般に、隠喩的な理解は字義通りの意味把握が不可能であるときに発動する理解のモードである。しかし〈ヨーロッパはアジア大陸の小さな岬になる〉においては、字義通りの理解と隠喩的な理解が共存しており、むしろ隠喩と事実の重なりこそが私たちを愕然とさせるのである。なぜ愕然とさせられるのか、それは、この隠喩と事実の重なりにおいて、わたしたちの頭のなかにあった隠喩が失効させられるからだ。つまり、「ヨーロッパは大きい」「ヨーロッパこそ世界の中心である」という、この表現に出会うまえにひとびとが漠然といだいていたはずの隠喩が、である。隠喩を否定する隠喩、とでもいうべきだろうか。ヴァレリーはこの表現を用いることによって、私たちの頭のなかにあった「ヨーロッパは大きい」という隠喩的世界像に対し、「ヨーロッパは小さい」という地理的な事実を衝突させ、この攻撃をもって、ヨーロッパの世界的影響力の減少という楽観ぬきの事実について、隠喩的にのべているのである。さらに、「ユーラシア大陸」つまり「ヨーロッパ(Euro)+アジア(Asia)大陸」を「アジア大陸」と呼び、ヨーロッパ「半島」を「岬」と言い換えることで、ヨーロッパからアジアへという世界の中心の移動を、思考における「視座の転換」としてわたしたちに身体的に実感させている。(伊藤亜紗ヴァレリー 芸術と身体の哲学』講談社講談社学術文庫〕/2021/p.14-17)

以下、『白い病』の結末に触れる。

元帥もまた〈白い病〉に感染する(第3幕第2場。おそらくは第2幕第5場における、〈白い病〉を発症したクリューク男爵との握手による)。元帥は娘とクリューク男爵の甥に説得され、ガレーン博士に戦争を終わらせることを電話で約束する。ガレーン博士はすぐさま治療のため(≒戦争を終わらせるため)元帥のもとへ向かおうとするが、「元帥万歳! 戦争万歳! 元帥に栄光を!」と叫ぶ群衆に車の通行を妨げられる。車を降りて歩き出したガレーン博士が「戦争などだめだ! 戦争などしてはならない!」と口走ると、興奮した群衆に暴行されて呆気なく命を落としてしまう(その際、ガレーン博士の調合した〈白い病〉の治療薬の入った瓶も割られてしまう)。平和の道を断ったのは、元帥ではなく群衆であった。

ところで、カレル・チャペックの代表作であり、「ロボット」という言葉を定着させた戯曲『ロボット RUR(R.U.R.)』(1920)は、満員の路面電車が着想源であったという。

 ロボットは、路面電車に乗っていたときに生まれた。ある日、郊外から路面電車に乗ってプラハへ向かうことになったのだが、路面電車は満員で不快感をもよおすほどだった。近代の条件というものにより、人々が、普通の生活の快適さに気づけなくなっていることに私は驚いた。路面電車の中だけではなくステップのところまで、果物どころかまるで機械のようにすし詰めになっていた。私は、個々人としてではなく、機械として、人間を考えはじめるようになり、その道中、働く能力はあるが、考える能力はない人間を示す表現にはどういうものがあろうだろうかと考えはじめた。(カレル・チャペック阿部賢一〕『ロボット』中央公論新社〔中公文庫〕/2020/p.209〔付録として収載された『イヴニング・スタンダード』1924年6月2日掲載の記事〕)

路面電車に「まるで機械のようにすし詰めになっていた」人々から、「働く能力はあるが、考える能力はない人間を示す表現」として「ロボット」が生まれた。

(略)人間を組織化し、完全へと導く動きは、機械を組織化し、完全へと導く動きと同じくらい確実に進行しているだろうか。あるいは、機械設備に投資するのと同じように、我々は人間の事柄の整備に多くの想像力と洞察を投資しているだろうか。さらには、このように問うこともできる。機械に対するのと同程度の関心を人間の事柄に投資しているだろうかと。この100年のあいだに、私たちは人間のスピードを何倍も速め、人間の効率を何倍も高めてきた。だが、人間の教育や生活の安定、もしくは生活に価値をもたらすものを、同じような比率で高めたと誇ることはできないだろう。機械が人間に勝っていることに疑いはない。だが、それは、私たちが、機械に多くの関心を寄せ、機械に多くの投資を行なっているからなのである。
 私たちの機械は優秀であるが、私たちの社会面、人道面での試みはその場しのぎのものでしかない。進歩について語ろうとするならば、我々が誇るべきは、車や電話線の数ではなく、人間らしい生を私たちおよび私たちの文明にもたらす価値のことだろう。機械が人間の主人になるのではないかと私は懸念していない。それよりもたちがわるいのは、私たち人間が、人間自身あるいは人間らしい事柄の悪しき主人となることだろう。人間と機械の関係は、人間が人間に対してどのような関係を築くかにかかっている。機械の力が私たちの手中にあるのと同様に、それは、私たちの手中に収めるべきだろう。(カレル・チャペック阿部賢一〕『ロボット』中央公論新社〔中公文庫〕/2020/p.213-214〔付録として収載された『プシートムノスト(現在)』1929年2月7日掲載の記事〕)

「私たち人間が、人間自身あるいは人間らしい事柄の悪しき主人となる」結果、路面電車に「まるで機械のようにすし詰めになっていた」人々、すなわち「働く能力はあるが、考える能力はない人間」が生まれる。「元帥万歳! 戦争万歳! 元帥に栄光を!」と叫んで路上に溢れた群衆を構成していたのは、そのような人間ではなかったろうか。

『ロボット(RUR)』は、ゴーレム伝説を現代の形に移し替えたものである。もちろん、このことに気づいたのは、作品が完成してからのことであある。「まったく、これはゴーレムじゃないか。ロボットは、工場の大量生産のかたちのゴーレムだ」と自分でも思った。(カレル・チャペック阿部賢一〕『ロボット』中央公論新社〔中公文庫〕/2020/p.221〔付録として収載された『プラガー・ターグブラット(プラハ日報)』1935年9月23日掲載の記事〕)

ゴーレムは、人造人間・疑似人間としての怪物的性格を有するとともに、神ではない者によって創造されたという点で、神によって創造された人間に及ばないという劣等人間的性格を有する(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社平凡社新書〕/2010/p.103参照)。

(略)『創世記』の一節、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(2.7)を引いたとき、私は次のような主旨のことを書いた。「命の息」を封入される前の土はただの土くれだ、その意味で、もしアダムがわれわれ人間の祖先だとするなら、われわれすべてがかつては土くれだったと述べてもいいのだ、と。われわれは、誰もが、かつてゴーレム段階を経てきた。それは、われわれの内部にはかつてゴーレムだったという記憶、またはその痕跡が残っているということを意味しうる。
 〈人間圏〉の中に当然棲まうはずのわれわれ全員が、その内部に〈人外〉の成分を入れている。先に私は〈人間圏の境界〉について語った。だがそれは、〈人間圏〉には純粋な中央部があり、そこには〈人間の人間性〉の確固たる中核が控えているということを反照的に指示するわけではない。つまり、確固たる中核があるからこそ境界が語れる、とは必ずしも言えない。むしろ境界は、〈周縁部〉にあるはずだという通念を破り、〈人間圏〉の内部をいわば彷徨して歩く。誰がいつ、どのような意味で〈人外〉になってもおかしくはない。われわれは、仮にゴーレムそのものではないにしても、多少なりとも〈ゴーレム的なもの〉を抱えながら生きているのだ。(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社平凡社新書〕/2010/p.200-201)

ロボットがゴーレム(≒人外)であるなら、「人間と機械の関係」とは人間とゴーレム(≒人外)の関係に等しい。そして、「人間と機械の関係」が「人間が人間に対してどのような関係を築くかにかかっている」なら、人間とゴーレム(≒人外)の関係もまた、「人間が人間に対してどのような関係を築くかにかかっている」ことになる。なぜなら、そもそも人間の中にゴーレム(≒人外)が棲まうからである。
ガレーン博士を殺害した興奮した群衆の中には、クリューク社の経理部長の息子の姿があった。彼は戦争反対を訴えた男(ガレーン博士との認識はない)が殺されたのを見て、「なんてことないな。裏切り者が1人いなくなっただけだ」と吐き捨てるように言う。そのとき彼は殺された男(ガレーン博士)を「ゴーレム(≒人外)」として看做しているのであるが、そのとき彼自身もまた「ゴーレム(≒人外)」と堕すのだ。『白い病』の群衆(人間)と『ロボット(RUR)』に登場するロボットとが「ゴーレム(≒人外)」として表裏一体であることは、前者における〈白い病〉の治療薬の喪失と後者におけるロボットの設計図の焼却という、生命を握る鍵が失われるという両作品の共通点からも明白であろう。