映画『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』を鑑賞しての備忘録
2023年製作のジョージア・スイス合作映画。
110分。
監督は、エレネ・ナベリアニ(ელენე ნავერიანი)。
脚本は、ニコライ・ムディヴァーニ(ნიკოლოზ მდივანი)とエレネ・ナベリアニ(ელენე ნავერიანი)。
原作は、タムタ・メラシュビリ(თამთა მელაშვილი)の小説"შაშვი შაშვი მაყვალი"。
撮影は、アグネス・パコズディ(აგნეშ პაკოზდი)。
編集は、オーロラ・フォーゲル(აურორა ფოგელი)。
原題は、"შაშვი შაშვი მაყვალი"。
ジョージアの村。渓谷を流れる川は雨で増水し濁流となっている。エテロ(ეკა ჩავლეიშვილი)が川岸の崖にブラックベリーを摘みに来た。熟れた黒い実を摘み取っていると、クロウタドリがブラックベリーに留まって囀る。エテロが眺めているとクロウタドリは大空へと飛び立った。クロウタドリを目で追いながらブラックベリーを口に含むと、足元が崩れ滑落する。エテロは何とか途中で止まり、必死に斜面を攀じ登る。崖の上に到達したエテロは仰向けになり休む。
帰り道、橋を通りかかると、スワンボートを乗せた車が音楽を大音量で鳴らしながら通り過ぎた。ふと欄干から橋の下を見やると、川岸に女性の遺体が流れ着き、近隣の人々が集まっていた。俯せの遺体が仰向けにされると、それはエテロ自身だった。「エテロ」の閉じていた目が見開かれ、橋上のエテロを見据えた。
動揺したエテロが自らの経営する美容雑貨店「あなただけに」に向かう。ドアを解錠すると、雷鳴が轟く。雨が降り始めた。店内でエテロは1人擦り傷の手当てをする。エンジン音が響き、1台のヴァンが店の前に停まる。段ボールを抱えたムルマン(თემიკო ჭიჭინაძე)がやって来た。ドアを開けてやるとムルマンは噛んでいたガムを投げ捨て店に入ってきた。おはよう。ちょっと早めに来たんだ。倉庫に運んで。エテロはカウンターの扇風機を回し、卓上の拭き掃除をする。持って来たものを見てくれよ。新商品なんだ。綺麗に陳列するからさ。段ボールをそのままにしないで。置き忘れたりなんてしないさ。新しい包装だろ? 量や値段は変わってないけどな。いくつ持って来たの? 30個。前回そう話を付けたよな。ムルマンは財布を取り出してメモを確認する。白を15個に色付きのを15個だ。エテロは財布に入っていた子供の写真について尋ねる。自慢の孫だよ。双子なんだ。ムルマンが微笑む。鏡を見たら兄弟がいるって思うのさ。エテロがムルマンに近付き、首筋の臭いを嗅ぐ。ムルマンがそっとエテロを押し戻す。エテロはムルマンの顔や頭を撫でる。エテロが口付けする。ムルマンは服を脱いで床に横たわる。エテロはワンピースを身につけたまま下着を脱ぐとムルマンに跨がる。エテロはムルマンのベルトを外し一物を取り出すと、自らの中に挿入する。
ジョージアの寒村で一人暮らしのエテロ(ეკა ჩავლეიშვილი)は美容品など日用雑貨を扱う店「あなただけに」を営む。生後間もなくして母を失い、成長して後は母親代わりとして父(გოჩა ნემსიწვერიძე)や兄(რეზი ქაროსანიძე)にこき使われた。ネノ(ფიქრია ნიქაბაძე)、ロンダ(თამარ მდინარაძე)、ナテラ(ლია აბულაძე)ら近所の女性たちは独身のエテロを気遣う態で、その実、自分たち既婚者の優位を確認して悦に入っている。だがエテロの目には妻の立場にある彼女たちがとても幸せには映らない。峡谷に自生するブラックベリーを真の友として、時に仕入れに行く町でナポレオンパイを食べる以外は倹約・貯蓄に励み、引退後の悠々自適な日々を楽しみにしている。ある日、ブラックベリーを摘んでいて至近距離に留まったクロウタドリに気を取られたエテロは崖から滑落し、九死に一生を得る。エテロの中で何かが変わった。出入り業者のムルマン(თემიკო ჭიჭინაძე)に自らアプローチし、関係を持つ。48歳にして処女を失った。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
エテロの母はエテロの出産を機に亡くなったため、エテロは父や兄から母の死の責任を押し付けられた。成長してからは母代わりとして家事使用人のような扱いを受け、男を近づければ詰られた。エテロには家庭を持つことの幸せが理解できない。父や兄が亡くなり、自由な暮らしを手に入れたエテロだったが、性的な欲求だけは解消できなかった。ある日、クロウタドリがエテロの目の前にやって来て囀った。そのときエテロは崖から滑落して九死に一生を得、自分の孤独死を想像する。このままでは悔いが残ると、出入り業者のムルマンに自らアプローチして処女を喪失する。
クロウタドリは天使であった。滑落とその直後の自己の遺体の幻視体験は、再生せよとの天啓であった。雷鳴は神の声であり、彼女の生き直しを後押しする。処女を捨てることは、性的欲求を満たすとともに、父や兄の呪縛からの解放だった。だからエテロは情事の相手としてムルマンを求めはするものの、彼と所帯を構えることなど端から考えてはいないのである。
エテロの周囲の女性たちはエテロを思ってと言いながらエテロを蔑む。だが逆に言えば、エテロを小馬鹿にして溜飲を下げるくらいしか彼女たちには楽しみがない。妻たちこそ憐れな存在なのだ。だからエテロは町のカフェでその体型じゃ結婚できないと揶揄った老人(თენგო ჯავახაძე)に言い放つ。結婚と男根で幸せになれるなら、世の女性の多くは幸せになっていなきゃおかしいじゃないかと。
エテロの生き様に快哉を叫ばずにはいられない。