展覧会『国立西洋美術館本館特別展示 リヒター/クールベ』を鑑賞しての備忘録
国立西洋美術館の常設展の一角で開催されている小企画展。ギュスターヴ・クールベの《狩猟者のいる風景》(1873年)と、ゲルハルト・リヒターの《シルス・マリア(882-1)》(2003年)と《抽象絵画(ラヴィーン)》(1996年)とを並べて見せる。
《狩猟者のいる風景》はクールベがフランスからスイスへと亡命する直前に故郷オルナンを描いた絵画。リヒターの《シルス・マリア(882-1)》はスイスの景勝地をピントをぼかしたように描いた作品で、《抽象絵画(ラヴィーン)》(1996年)は風景を描いた画面を白い絵の具でほとんど塗りつぶしてしまったもの。
クールベは「19世紀なかばに『アール・ヴィヴァン(生きている芸術)』を標榜してレアリスムを創始し、近代絵画のとば口を切り拓いた」。それに対してリヒターは、「ときに『最後の画家』とも称され」、「近代絵画史の『終わり』に位置することを自覚させられてきたペインター」である。リヒターが偶然入手したクールベの風景画を自宅に飾っているというエピソードに触発された新藤淳による企画。
クールベが生きた時代は、写真撮影技術が発明され、改良・普及が進めらた時代に当たる。カメラ・オブスクラのように、もともと絵画を書くための道具であった写真に、絵画は、見えるものの正確な再現という役割を奪われていく。絵画の意義が問い直されて、絵画表現のあらゆる試みが行われた後に生まれた画家リヒター。2人を対峙させ、絵画の魅力を考えさせる。
とりわけ、この企画展示の周囲には15~16世紀の絵画が並ぶため、リヒターの作品には鮮烈な印象を受ける。
リヒターの《抽象絵画(ラヴィーン)》は、風景が塗り残されている。その塗り残しが、もとも風景に対する想像を膨らませる。
映像が手軽に、大量に入手できる時代。何かを見たいという欲望の強度は弱まっているのかもしれない。いかに見せないかという工夫は、見る欲望を刺激するための手段となる。
「草食」という言葉は、性の神秘のヴェールが剥がされてしまった時代に産み出された言葉だろう。
裸や性というそれ自体はけっして悪ではないものが「猥褻」として規制されてきたことは不思議で、裸や性の情報が溢れる現在において規制する意義は乏しい(他者に対して強制するものは無論のぞく)。だが、性に対する欲求を喚起するというかつての立法事実とは真逆の方向に機能することを考えるなら、性表現規制は有用性を獲得しうることがありうるかもしれない。