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芸術鑑賞の備忘録

映画『バジュランギおじさんと、小さな迷子』

映画『バジュランギおじさんと、小さな迷子』を鑑賞しての備忘録
2015年のインド映画。
監督はKabir Khan。
脚本は、Kabir Khan、Kausar Munir。
英題は"Bajrangi Bhaijaan"。

パキスタン・スルターンプルの山村に住む少女シャヒーダ(Harshaali Malhotra)。その名は母親(Meher Vij)が妊娠中にテレビ観戦したクリケットパキスタン選手シャヒードに因む。シャヒーダは声を発することができず、このままでは学校に通うことができない。母親は一縷の望みを託し、声を発するのに霊験があるというデリーのイスラム寺院を参詣することにする。元軍人の夫はビザが下りないため、親娘二人旅となった。残念ながら霊験あらたかとはいかず失意のまま列車に乗り込む。真夜中、列車が足止めされた際、シャヒーダは窓外に仔羊が穴にはまって動けなくなっているのを見つけ、助けるために列車を降りてしまう。その間に列車は発車してしまい、母親が娘の不在に気付いたときには既にパキスタン側にいたため、娘を探すために戻ることも叶わなかった。乗
り遅れたシャヒーダは後から来た貨物列車に飛び乗るも、パキスタンではなく、インドのクルクシェトラに辿り着く。

クルクシェトラでシャヒーダが助けを求めたのは、ヒンズー教徒でハヌマーンを敬うパワン(「バジュランギ」の異名。Salman Khan)。パワンは亡き父の友人で、デリーに住むレスリングのコーチ、ダヤナンド(Sharat Saxena)を頼り、そこでダヤナンドの娘ラスィカ(Kareena Kapoor)と恋に落ちた。パワンは6ヶ月以内に自分の家を持つことを条件にダヤナンドはラスィカーとの結婚を許されていたが、その期限は2ヶ月後に迫っていた。そのためパワンはシャヒーダに食事を与えて立ち去ろうとするが、シャヒーダは離れない。読み書きができないどころか、言葉を話すことすらできない少女を見かねて警察に連れて行くが、保護してもらえない。やむを得ずダヤナンドのもとへ連れて行くが、菜食主義者ではなく鶏肉を食べること、ヒンズー教徒ではなくムスリムであること、インド人ではなくパキスタン人であることが次々と明らかになる。激昂したダヤナンドにパキスタン大使館に連れて行くよう厳命されたパワンだったが、名前も分からない少女を保護してもらうことはできず、しかも抗議活動で集まった群衆が暴徒化して大使館を襲撃したために閉鎖されてしまう。次善の策と考えて訪ねた旅行代理店の男はパキスタンに伝があるとパワンを騙し、あろうことかシャヒーダを娼館に売り飛ばそうとしていた。怒りに燃えるパワンは、パスポートもビザもないままパキスタンの親の元へとシャヒーダを連れて行くことをラーマに誓うのだった。

 

コメディ、逃避行の緊張感、ロマンス、ミュージカル・シーンなど様々な要素を含みつつ、衒いなしに愛をテーマにした、万人にお勧めできる映画。
声を発することのできないシャヒーダがとにかく愛らしい。母親とはぐれてしまう瞬間から、とにかく家に無事に帰って欲しいと願わずにいられない。
シャヒーダを家に戻すと決心するまで、パワンが戸惑い、悩む過程が丁寧に描写されている。そして、ラーマに誓ってからは、パワンが愚直さを発揮して困難にひたすらぶつかっていく。そして、そのパワンの愚直さに救いの手を差し伸べる人たちが現われる。
ヒンズー教徒であるパワンがモスクに入るのをためらっていると、ウラマー(Om Puri)がモスクはあらゆる人に開かれていると声をかけるシーン、そのウラマーがパワンのとの別れに際して「ラーマ万歳」と唱えるシーン、そして最終盤でパワンが国境でイスラム式の挨拶をするシーンが素敵だった。
ジャーナリストのチャンド・ナワーブ(Nawazuddin Siddiqui)がインターネット上に配信する映像でストレートに愛を訴える。主人公パワンの愚直さと通じるものであり、何よりこの映画そのものの性格を表現していると思う。

直接描かれることはないが、シャヒーダの母親の心境を慮る。言葉を発せないことに責任を感じていたがゆえにデリーまでの参詣を決行し、あろうことか、その過程で愛娘を見失ってしまうのだ。声を手に入れたいと願ったばかりにと悔やみ、自らを責めたことだろう。だからこそ再会のシーンは胸を打つ。