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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『一葉、晶子、らいてう 鴎外と女性文学者たち』

展覧会『一葉、晶子、らいてう 鴎外と女性文学者たち』を鑑賞しての備忘録

文京区立森鴎外記念館にて、2019年4月6日~6月30日。

樋口一葉与謝野晶子平塚らいてうを中心に、明治・大正期の女性文学者たちを、鷗外との関わりを交えて紹介する企画。

 

樋口一葉
三宅花圃が『藪の鶯』で高い稿料を受け取ったことを知り、一葉は小説家を志した。
早稲田文学』24号掲載の奥泰資「文学と糊口と」は職業作家としてのあり方について一葉に影響を与えた。
鷗外は、『めさまし草』創刊号の「鷸翮搔(しぎのはねかき)」において、一葉を「処女にめづらしき閲歴と観察とを有する人」と評した。また、『めさまし草』巻之四の「三人冗語」では、一葉について「此人まことの詩人という称をおくることを惜まざるなり」を評し、一葉の名声を決定づけた。
『文藝俱楽部』1巻9編に「にごりえ」が掲載され、一葉は評判をとった。『文藝俱楽部』12編臨時増刊は閨秀小説を特集し、一葉は、若松賤子・小金井喜美子と並び「三閨秀」として、その肖像写真が掲載された。『文藝俱楽部』2巻5編には1895~1896年に不定期掲載された「たけくらべ」が一括掲載された。これが現在知られている「たけくらべ」。
明治の作家は江戸文芸の伝統を継いで口絵や挿絵などの下絵を自ら描いた。一葉も「ゆく雲」や「われから」の下絵を描いている。下絵は、本文で描かない点を補ったり、起稿前の構想が表現されていたりする。

 

現在の小説でも、新聞などの連載時には挿絵が付きながら、書籍化されると本文だけになる場合が多い。但し、小説と絵の作者は通常別人だ。江戸時代には書画が一体的に教養として捉えられていたようだが、物語の作者が絵を描くことも不自然ではなかったのだろうか。活版印刷による出版が、物語と挿絵の分離に一役かったことはありそうだ。だが近代に於ける原作者の神格化(オリジナル・テキストの絶対性)が口絵・挿絵による干渉の排除を要請したことが大きいのだろう。

 

与謝野晶子
『明星』6号(明治33年9月号)掲載の、鉄幹「京の紅は君にふさはず我が噛みし小指の血をばいざ口にせよ」と、晶子「病みませるうなじに繊きかひな捲きて熱にかわける御口を吸はむ」のように、鉄幹の挑発に対する晶子の応答が『みだれ髪』を生んだ。晶子「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ」。
『明星』の表紙は藤島武二などが手がけた。
山川登美子・茅野雅子・与謝野晶子『恋衣』の装丁・挿絵は洋画家の中沢弘光。
『スバル』の命名は鷗外。『スバル』10号(明治43年2月)には高村光太郎による《観潮楼安置大威徳明王》(鷗外の戯画)、『スバル』2年2号(明治43年5月)には、やはり高村光太郎の《SALAMANDRA》(晶子の戯画)が掲載された。

 

ウィーン銅版画の遠近法が浮絵(浮世絵版画)を生み、浮世絵版画がジャポニスムの流行を促し、アール・ヌーヴォーが日本の美術作家に影響を与え、という相互的影響関係。
ドイツに留学し、美術評論も手がけた森鷗外(1862~1922)と、グスタフ・クリムト(1862~1918)とは同年の生まれ。