可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 ヴェルヌ『海底二万里』

ジュール・ヴェルヌ海底二万里 上・下』〔新潮文庫ウ-2-2・ウ-2-3〕新潮社(2012)を読了しての備忘録
Jules Verne, 1870, "Vingt mille lieues sous les mers"
村松潔訳
上巻は第1部全24章、下巻は第2部全23章。
エデュアール・リユーによる扉絵とアルフォンス・ド・ヌーヴィルによる挿絵を全点掲載。

1867年4月。パリ自然史博物館のピエール・アロナクス教授は、ネブラスカ州バッドランズでの学術調査を終え、帰国の途次ニューヨークに滞在した。キュナード社の外洋船スコシア号の船底に幅2メートルの穴が穿たれた事故が世間を賑わしている最中にあり、海洋生物に関する学術書『深海の神秘』の著者で、斯界の権威で通っていた教授は、ニューヨーク・ヘラルド紙から解説を求められる。彼は巨大なイッカクが衝突したとの説を開陳する。アメリカ合衆国政府はイッカク退治のため、ファラガット艦長が指揮する高速フリゲートエイブラハム・リンカーン号の派遣を決定。艦長に招聘された教授は使用人コンセイユとともに同艦に乗り込んだ。銛、棘付きの矢、鴨撃ち銃の炸裂弾、大砲と装備を万端整え、3ヶ月間太平洋を探し回ったが、何の成果も挙げられなかった。水夫の不満が高まったため、やむを得ず艦長は3日間の猶予の後、帰還することを決定する。2日目の夜、カナダ人の銛打ちネッド・ランドが、強烈な光を発する怪物を発見する。怪物は甲高い音とともに水を噴出し、高速で移動して軍艦を翻弄した。砲撃に失敗した艦長は、長時間の追跡で疲労する怪物に近づき、ネッド・ランドに銛を打ち込ませることにする。銛は命中したが硬いものに当たる音がするだけだった。怪物の光が消えると、渦巻く水の柱が甲板に乗り上げた。アロナクス教授は海に投げ出されたが、それを見たコンセイユが主人を救うために海に飛び込んだ。スクリューと舵とを破壊されたエイブラハム・リンカーン号は、2人から遠ざかっていった。力尽きた2人はネッド・ランドのいる「小島」に辿り着く。それはネッド・ランドが銛を打ち込んだ怪物で、その正体は鋼鉄で覆われた潜水艇であった。高速で移動する船に必死にしがみついていたが、船が沈み始めた。ネッドが鋼板を蹴飛ばすと、船内から現れた船員たちに連れ込まれた3人は暗い部屋に監禁された。突然灯りが灯ると、2人の男が姿を見せる。

 もうひとりの未知の男はもっと詳しく描写する価値があった。人相学の大家グラシオレやエンゲルの弟子ならば、この男の人相をなんの苦もなく読み解いただろう。いくつかの支配的な性格はわたしにもすぐわかった。まず、自分への自信――肩がえがくアーチの上にすっと高貴にのびた首、冷静な確信に満ちた黒い目にそれが表れていた。次に、冷静さ――血色がいいというよりは青白い肌は血のめぐりが穏やかな証拠だった。そして、精力――眉をすばやくひそめる仕草にそれが読みとれた。最後に、気力――深い呼吸は大いなる生命力の発露を示していた。
 さらに付け加えれば、この男は誇り高い人物であり、そのしっかりした冷静なまなざしから物事を深く考える人間であることが読みとれた。しかも、そういうすべてに、身ごなしや顔の表情に統一感があるということは、人相学者の報告によれば、疑問の余地のない率直さを意味していた。
 この男の前にいると、わたしは(それとは知らずに)安らかな気持ちになり、話し合いはいい結果になるだろうという気がしてきた。
 年齢は35くらいか、それとも50にちかいのか、わたしにはけんとうがつかなかった。背は高く、額はひろく、鼻筋が通り、唇の線はくっくりとして、歯並びはすばらしかった。ほっそりとした繊細な手は、手相学の表現を借りれば、きわめて“精神的”であり気高く情熱的な魂の持ち主だということになる。この男はわたしがこれまでに出会ったなかでもっとも敬服に値するタイプだった。変わっていたのはちょっと間隔のあいた目で、一度に水平線の4分の1近くを視野に収められそうだった。この能力――わたしはのちにそれを確かめることになるのだが――に加えて、彼はさらにネッド・ランドをうわまわる視力の持ち主だった。この未知の男がなにかを見つめると、眉根が寄り、大きなまぶたが接近して瞳を取り囲み、視界を狭めて、じっとそれを見据える! なんというまなざしだったことか! 彼の目は遠ざかって小さくなったものを拡大し、相手の魂まで見通して、わたしたちには不透明でしかない液体の層を見透かし、深海の底まで見抜いてしまうのだった!……(上p.117-120)

「もうひとりの未知の男」は、潜水艇ノーチラス号の船長ネモであり、彼の描写には「人相学の大家グラシオレやエンゲルの弟子ならば、この男の人相をなんの苦もなく読み解いただろう」とある通り、観相学が用いられている。構成員を互いに見知っている村落共同体から、互いが見知らぬ者同士の都市へと人口が流れていくと、人間の心は人間の顔と対応しているという「観相術」や、その応用としての「探偵小説」が要請された。『海底二万里』は、その潮流の中に生まれた。

1840年代、1880年代、そして1920年代。いずれも観相術が大流行しました。ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズにもその影響がうかがえます。というより、そのものズバリです。ホームズの相棒のワトスンがアフガニスタンから怪我をして帰ってきます。ある日、そのワトスンが新聞を読みながら、「バカな奴がいるよ、人の外見を精密に観察し続けていくと、100パーセントその人間の性格がわかるという論文を書いたそうだ。世間を知らないにもほどがある」。ホームズは言います。「それを書いたのはぼくだよ」。ワトスンが「人間は複雑だから、外見だけで中身がわかるわけない」と言うと、ホームズが窓のそばにいって、こう答えます。「向こうから歩いて来る人は、必ずこの家を訪問する」。そして外見をしげしげと観察しながら「あれは海兵隊の伍長だったにちがいない。インドで戦ったな。兄弟は何人で……」と続けた。ワトスンは、ホームズがあの男はここに来ないことを知っていて、口から出まかせを言っていると思っていたが、その男が「お手紙です」と言ってやって来る。彼はメッセンジャーだったのです。ワトスンが「ひょっとして君、海兵隊にいた?」などと、ホームズが言ったことをすべて問いただしてみると、全部当たっている。ワトスンいわく、「君って魔法使いみたいな男だな」。おわかりでしょうか。ホームズは観相術を実地にやってみせているわけです。このリーディング(読みとり)がいかに正しいかを証明してみせるのが、つまりは推理小説であるわけです。
観相術とは、要するにある人の内なるキャラクター(性格)を外なるキャラクター(文字)として読みとる技術で、英語では「キャラクター」という語が出てくる場合、英和辞典がそうなってりうようにぴしりとわかれるわけではない。いわばいくつかの意味の割合の問題にすぎないのです。(高山宏神戸芸術工科大学レクシャーシリーズ 表象の芸術工学工作舎/2002年/p.45-46)

ノーチラス号のサロンの部分の鋼板は開閉式で、ガラス窓越しに海の生物を観察することができる。

 2時間にわたって、ありとあらゆる魚の群れがノーチラス号のお供をした。戯れ、ひらりと体をかわし、美しさを、きらめきを、速さを競い合う魚たち。そのなかでわたしにも見分けられたのあグリーンラス、2本の黒い帯があり、ひげを生やしているオオスジヒメジ、尾びれが丸く、白い体の背に紫の斑点のあるハゼ科ゴビウス族の1種、青い体に銀色の頭、日本近海の美しいサバであるマサバ、名前だけでどんな描写にもまさる光り輝くアジュロール(ササムロ)、さまざまな青や黄色のひれをもつスリーストライプト・ウィップテール、尾びれの黒い縞でそれとわかるヤシャベラ、6本の帯を優雅にまとったシマタレクチベラ、まさに笛を吹くような口をした海のヤマシギとでも言うべき魚で、なかには体長1メートルに達するものもあるヘラヤガラオオサンショウウオ、長さ2メートルにもなり、小さな鋭い目、ギザギザの歯が並ぶ大きな口をしたクモウツボなどだった。(上p.232)

アロナクス教授はノーチラス号の行く先々でサロンから海洋生物を観察し、記録する。分類学的・博物学的描写の繰り返しが、『海底二万里』の骨格となっているとも言える。言うまでもなく、博物学的関心が人間に向けられるとき、先ほどの観相学となる。

自然科学でいうタクシス(分類)の問題もあります。どういうことかというと、つまり「虫が走ってる」という子供より、「ゴキブリが走ってる」と言った子供のほうがランクが上なのです(笑)。「チャバネゴキブリ」、「○○チャバネゴキブリ」と言えればもっとランクが上がります。1660年代に起きたある変化というのは、「虫」というよりは「ゴキブリ」と言う方が近代人であるという考え方になってきます。ここに分類学(taxonomy)が登場します。
日本で分類学を探究し続けた中尾佐助先生(1916-1993)は、分かる/解るという言葉は「分ける」という言葉から発すると考えました。解るためにはまず分けるしかない。(高山宏神戸芸術工科大学レクシャーシリーズ 表象の芸術工学工作舎/2002年/p.28)

ネモ船長は、独裁者が不当な権力を行使する陸と縁を切り、自由な海に生きている。

「わたしはずいぶん迷いました」と船長はつづけた。「わたしがあなたたちを歓待しなければならない理由はひとつもない。そして、あなたたちと別れるのなら、二度と顔を合わせないほうがいい。だとすれば、あなたたちを元どおりこの船のデッキに戻して、わたしは水中にもぐり、あなたたちの存在を忘れてしまえばいいわけです。わたしにはそうする権利があるんじゃありませんか?」
「それは野蛮人の権利でしょう」とわたしは答えた。「文明人がすることじゃない」
「教授」と船長は激しい口調で言い返した。「わたしはあなたたちが文明人と呼ぶ人間ではないんです! わたしはわたしにしか理解できない理由から、社会全体と縁を切った人間なんだ。したがって、その規則に従うつもりは毛頭ないんです。わたしの前では二度とそういうことは口にしないでもらいたい!」
 彼ははっきりとそう断言した。この未知の男の目に怒りと侮蔑の稲妻が光り、彼が抱えている恐ろしい過去が垣間見えたような気がした。彼は人間社会の掟から抜け出しただけでなく、自立した存在になった。もっとも厳密な意味で、自由な、だれの手も届かない存在になったのだ!(上p.150)

ネモ船長が海面下で自由に行動する姿は、ヴェルヌが海面下という未知の世界を舞台に想像を逞しくする姿と重なる。

「(略)海には究極の静寂があり、海は独裁者のものではないのです。海上では、独裁者はまだその不当な権力を行使したり、そこで争ったり、むさぼりあったり、地上のありとあらゆる醜悪なものを持ちこんだりできるかもしれない。しかし、海面下に10メートルももぐれば、彼らの権力はやみ、影響力は消え、支配力は無に帰する! ああ、博士、海のふところで生きることです! そこにしか自立はありえない! そこには支配者は存在しない! そこならば、わたしは自由になれるんです!」(上p.163)

同じくヴェルヌが著した『八十日間世界一周(Le tour du monde en quatre-vingt jours)』のフィリアス・フォッグが陸上ないし海上を直線的に最短で移動しようとするのとは対照的に、海面を行く潜水艦(submarine)ノーチラス号(=怪物)の航跡は直線的ではない(南極では後退も経験している。下p.339)。それはネモ船長の生き方そのものを表している。ヴェルヌがネモ船長に託したカウンター・カルチャーは、グリッサンの海面下(submarine)の思想と響き合うように思われる。

 ブラスウェイトが1974年にジャマイカで感光した小冊子の論考『矛盾した前兆』の末尾にすべての結論として記した「統一は海面下にある」という喚起的なフレーズについて、すでにグリッサンは『アンティルの言説』(1981)に収められたテクストのなかで、彼の刺戟的な反歴史学の宣言に仮託しながら論じている。その覚え書きのような断片は、『アンティルの言説』のなかの核心的な章"Histoire, histoires"(〔大文字単数の〕歴史、〔小文字複数の〕歴史)と題された部分に、「トランスヴェルサリテ(横断性)について」というタイトルで収められている。その断章はこうはじまる。

 しかし、カリブ海における私たちの多様な〔複数の〕歴史は今日もう1つの啓示を生み出した。それが、地下における歴史の無数の糸の収束である。そこにおいて、歴史は〈横断性〉という、存在すら知られていなかった人間の行動様式に光をあてる。カリブ海の歴史の内破(すなわちわが民衆の無数の歴史が収束する場)は、1本の筋道をひたすら歩むだけの唯一の大文字の「歴史」がもつ直線的でヒエラルキー的な構想力から私たちを救い出す。カリブ海の縁で吼えたてている怪物はこの大文字の歴史ではなく、むしろ私たちの無数の歴史の地下における収束に問いかけようとする情熱である。足元の深みにひろがっているものは、神経症の奈落であるというよりは、なによりもまず、さまざまな道筋を収束させる場なのである。

 地下souterraineの収束couvergenceという特異な語法に注意しなければならない。この想像力は、いうまでもなく、グリッサンのいう大文字の「歴史」が、ヨーロッパという大陸を起点に世界を覆い尽くした地上的な構築物であることを前提としている。そのうえで、グリッサンは地下に、関係性の束として収斂する多様な小文字のイストワール(歴史)=イストワール(物語群)の存在を想像する。西欧的「普遍性」の超越的な原理に対し、中心のない互酬的関係にもとづく「横断性」transversalitéの原理が働くのも、まさにそうした場である。地上に顕在しない、群島の想像力の深みにこそ、物語の束が収斂しひとつの声がたちあがる場が隠されている……。こうしたヴィションに導かれるようにして、グリッサンは、ブラスウェイトの「統一は海面下にある」The unity is submarineというフレーズを英語のまま引用しながら刺戟的に書いている。

 わたしにとって、この表現は重りと鎖に繋がれたあれらのアフリカ人たちの命運だけを喚起する。奴隷船に乗せられて海をわたるうちに、敵艦に追われた奴隷船が交戦するための身軽さを得るために甲板から海に投げ捨てた、あれらのアフリカ人たちのことを。彼らは海の深みに、不可視の存在の種を蒔いた。それによって、崇高なるものの普遍的な超越性ではなく、横断性が拓かれた。わたしたちは、文化の交差する関係性のなかに無数のルーツ(根)を持ったのである。
 海面下のルーツ。それは自由に漂い、どこかの始原的な地点に固定されることなく、錯綜した根茎を世界のあらゆる方向に広げている。

 カリブ海の物語群の貯蔵庫としての「地下」というグリッサンの初発のイマジネーションは、さらにブラスウェイトに鼓舞されるようにして、「海面下」というより喚起的な想像力へと曳航された。この海面下の場こそ、まさにウォルコット珊瑚礁と鮫の祝福に彩られた王国として描いたあのアフリカ人の死者たちの声が響く「深み」のことでもあった。歴史的事実が教えるアフリカ人奴隷の太平洋上での受難の物語は、だが、一度海面下に潜伏することで専横的な「歴史」の権力構造から離脱し、別種の力、すなわち無名性に依拠する錯綜した〈関係〉が示す重層的な声の綾織りとしての深い浸透力を獲得したのであるこうした統合的な力の伏在に確信を得たからこそ、ウォルコットは「海が歴史である」と宣言しつつ、自らをノーボディと呼びながら、その無人称性を「ネイション〈国家)」という、もう1つの統合力の怪物に突きつけることもできたのであろう。陸上において国家の産物でしかあり得ない者が、海面下において集合し収束する無名の「声」の谺として、ついには公の歴史に反旗を翻す可能性を、群島の詩人たちは、古き語り部の声の感触に寄り添いながら、ついに宣言したのだった。(今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社/2017年/p.192-194)

「海面下に潜伏することで専横的な『歴史』の権力構造から離脱し」たネモ船長は、正体不明の怪物として、「その無人称性を『ネイション〈国家)』という、もう1つの統合力の怪物に突きつけ」る。ネモ船長が掲げる黒い旗(下p.325)に縫い込まれた金色のNの文字は「ノーボディ(Nobody)」の頭文字ではないか。

「どういうわけなんだ? わたしたちを砲撃してくるなんて!」とわたしは叫んだ。
「親切そうな連中だこと!」とカナダ人がつぶやいた。
「それじゃ、わたしたちを漂流物にしがみついている遭難者だとは思っていないのか!」
「旦那様のお気には召さないかもしれませんが――まったく」と、あらたな砲弾が彼にまで跳ねかけた海水を振り払いながら、コンセイユが言った。「――旦那様のお気には召さないかもしれませんが、彼らはイッカクだと思っているんです。イッカクに砲撃しているんですよ」
「しかし見えそうなものじゃないか」とわたしは叫んだ。「こっちに人間がいるってことが」
「だからこそ、砲撃してきたのもかもしれないぜ」と、わたしの顔をじっと見ながら、ネッド・ランドが言った。
その瞬間すべてが腑に落ちたような気がした。いわゆる怪物の存在についてどう考えるべきなのか、いまや人々は知っているにちがいなかった。この船がエイブラハム・リンカーン号に接舷し、カナダ人が銛を打ち込もうとしたとき、イッカクが実は潜水艇だったこと、超自然的なクジラ類よりも危険な代物だったことを、ファラガット艦長は悟ったのではないか?
 そうだろう、そうにちがいなかった。いまや世界中の海で、人々はこの恐ろしい破壊兵器を捜しまわっているにちがいなかった!
(略)
「ああ! おまえはわたしが何者か知っているんだな、呪われた国の船め!」と、船長は力強い声で叫んだ。「おまえの長旗の色をみなくても、わたしにはわかるんだ! ほら、見るがいい! わたしの旗を見せてやろう!」
 そう言うと、ネモ船長はデッキの前方に黒旗を掲げた。南極点に立てたのとおなじような旗だった。
 その瞬間、砲弾が斜めからノーチラス号の船体に当たって跳ね返り、船長のすぐそばを通って海中に沈んだ。
 ネモ船長は肩をすくめると、わたしに向かって言った。
「下りなさい」と彼はぶっきらぼうな口調で言った。「下りなさい、あなたもあなたの仲間たちも」
「船長」とわたしは叫んだ。「それじゃ、あなたはあの船を攻撃するつもりなんですか?」
「沈めるつもりです」
「やめてください!」
「いや、沈めてやります」とネモ船長は冷ややかに答えた。「わたしを裁こうとはしないことです、教授。運命の巡り合わせから、あなたは見るべきでないものを見ることになった。わたしは攻撃を加えられたんです。反撃は容赦ないものになるでしょう。船内に戻りなさい」(下p.453-458)