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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『永遠に「新青年」なるもの―ミステリー・ファッション・スポーツ―』

展覧会『創刊101年記念展 永遠に「新青年」なるもの―ミステリー・ファッション・スポーツ―』を鑑賞しての備忘録
神奈川近代文学館にて、2021年3月20日~5月16日。

1920年から1950年まで刊行された雑誌『新青年』を、本誌や原稿・原画に、写真や関連資料を交え、「第1部:創刊と探偵小説の始動」(第2展示室)、「第2部:モダニズムの隆盛」(第2展示室)、「第3部:ジャンルの成熟と試練」(第3展示室)、「第4部:戦後の展開」(第3展示室)の4部で紹介する。

以下、主として、初代編集長・森下雨村による、探偵小説雑誌としての『新青年』を取り上げた「第1部:創刊と探偵小説の始動」について。

博文館では、日露戦争後から発行していた『冒険世界』を、編集長となった森下雨村の下で『新青年』として再出発することになった。 創刊号巻頭には白鳥省吾「新しき青年に檄する歌」が掲げられたが、オースティン・フリーマンの『白骨の謎』(保篠龍緒訳"The Eye of Osiris")も掲載されていた。雨村は1921年8月号増刊で「探偵小説傑作集」(モーリス・ルブラン『水晶の栓』など)を組むなどして、探偵小説誌のイメージを浸透させた。

「日本探偵小説の父」とも称される黒岩涙香は、脚色を交えつつ翻訳する「翻案小説」として『巌窟王』(アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』)や『噫無情』(ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』)を紹介。翻案小説による探偵小説が流行を見せるが、日清戦争を機にブームは下火となり、犯罪の実録である探偵実話(元祖は警視庁に勤めていた森沢徳夫。『闡幽燭微探偵淵軌』は「探偵の術策」を示す意図で著された)が命脈を保っていたのが、『新青年』登場前の状況だった。

新青年』においても、中心となるのは、ジョンストン・マッカレーの「地下鉄サム」シリーズなど翻訳作品だったが、1923年4月増刊号に江戸川乱歩二銭銅貨』が掲載されて以降、夢野久作甲賀三郎など日本人作家の時代を迎える。探偵小説作家たちは「探偵趣味の会」を起ち上げ、機関誌を発行したりイヴェントを開催することで探偵小説の舞台を広げていった。

医学者である小酒井不木(『殺人論』などを著す)や法律家の浜尾四郎(「変態性の犯罪について」[1928年10月号]、「正義」[1930年4月号]などを執筆)による実際の犯罪や捜査に関する記事や、フロイトなどによるシェイクスピア劇の精神分析的解釈(長谷川天渓「ハムレット精神分析」)なども掲載された。

本展のメインヴィジュアルに採用されているのは、赤い紙の破れ目から金髪の青い目の女性が覗く極めて印象的な作品(『新青年』1933年10月号表紙)。手がけたのは創刊翌年から表紙絵を担当した松野一夫。小栗虫太郎黒死館殺人事件』など作品に応じてタッチを変えた挿絵にも腕を振るった。なお、竹中英太郎、内藤賛、坪内節太郎、尾崎三郎なども新青年の挿絵を担当している。

探偵小説論争。探偵(素人も含む)が謎を解き明かす論理が重視される本格探偵小説(甲賀三郎ら)と、謎解き以外の要素に比重を置く文学(あるいは変格)派(木々高太郎ら)との対立。平林初之輔「探偵小説の諸傾向」[1926年2月]は、精神病理的、変態心理的側面の探索により多くもしくは全部の興味を集中させ異常な世界を構成してそこに物語を発展させる「不健全派」として江戸川乱歩小酒井不木横溝正史城昌幸を挙げる。なお、ヴァン・ダイン(小河原幸夫訳)「探偵作家心得二十ヶ條」も『新青年』に掲載された[1930年6月号]。

1927年から『新青年』の編集長に横溝正史が就任し、渡辺温水谷準(後に編集長)とともに、教養(「新青年趣味講座」)、ファッション(「ヴォガンヴォグ」)、スポーツ(学生野球など)を含めたモダンボーイのための雑誌へと内容を一新した。特段指摘はなかったが講談社の『キング』の影響も大きかったろう。

「第3部:ジャンルの成熟と試練」は、主に水谷準が編集長の時代。『完全犯罪』[1933年7月]でデビューした小栗虫太郎木々高太郎久生十蘭(『黄金遁走曲』を1935年7月から連載)、海野十三渡辺啓助渡辺温の兄)らを紹介。戦時下の状況についても。『新青年』400冊を並べ、表紙を一覧させるコーナーも設けられている。

出展作品リストが配布されていないのが頗る残念。