可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『話しているのは誰? 現代美術に潜む文学』

展覧会『話しているのは誰? 現代美術に潜む文学』を鑑賞しての備忘

国立新美術館にて、2019年8月28日~11月11日。

田村友一郎のインスタレーション《Sky Eyes》、ミヤギフトシの26点の写真と5点の映像で構成されるインスタレーション《物語るには明るい部屋が必要で》、小林エリカ原子爆弾をテーマにしたインスタレーション、豊嶋康子の木材やベニヤ板を用いた「パネル」や「棚」などの立体作品のシリーズ、山城知佳子の32分の映像作品《チンビン・ウェスタン『家族の表象』》、北島敬三の写真(「USSR 1991」、「EASTERN EUROPE 1983-1984」「UNTITLED RECORDS」の各シリーズからの72点)を紹介する。 


田村友一郎の《Sky Eyes》について
冒頭、ニューハンプシャ州のナンバープレートが壁面に掲げられている。このナンバープレートには、"LIVE FREE OR DIE"というメッセージが記されるとともに、アメリカの3セント切手にも採用されたオールド・マン・オブ・ザ・マウンテンの山容がデザインされている。老人の横顔に見えることから名付けられたこの岩山は2003年に崩落してしまい、現存しないという。続いて、横に伸びるガラス窓の向こう側に低いテーブルが設置され、そこには店舗と周辺の道路を再現した建築模型などとともにマクドナルドで提供されるコーヒーが置かれている。光源は見えないがマクドナルドのMのサインを思わせる黄色い光に照らし出されている。その隣に穿たれた穴からは、壁に掛けられていたのと同種のナンバープレートが床に数多く置かれている。そして、その先に広い展示空間が広がり、その床には数多くの木製のオールが並べられている。壁面にはマクドナルドのコーヒーを写した写真が2枚掲げられている。天井からは4面のモニターが吊るされ、CとOとを組み合わせたような黄色く輝く立体が動く映像がナレーションとともに流されている。コーヒーにパーム油でできたミルクもどきは溶けることなく、マドラーで混ぜると泥水のような色を呈するという。そこから東南アジアのアブラヤシのプランテーションに降り注ぐ雨が泥水となって川に流れ込み洪水を引き起こすイメージが語られる。マドラーは泥水を搔いて進む舟のオールと化し、コーヒーと泥水、マドラーとオールのアナロジーは、岩に人の顔を見出したオールド・マン・オブ・ザ・マウンテンへと連なる。離れて見るとき、本来(岩)とは異なる性質(顔)が浮かび上がる。その性質とは、GPS(地上から離れた位置から見るシステム)のもたらす数メートルの誤差のようなものとも言えるだろう。人間が生み出す誤差は時に衝突を招くが、その衝突から快復させ、再生させるのもまた人間であるとナレーションは締めくくられる。

 連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう。逆に不連続な点と線があると、私たちはそれをつないで連続した図像を作ってしまう。つまり、私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。なぜだろう。連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足を補って見ることが、生き残る上で有利に働くと感じられたから。もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心につながったから。世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。
 かつて私あっちが身につけた知覚と認識の水路はしっかりと私たちの内部に残っている。しかしこのような水路は、ほんとうに生存上有利で、ほんとうに安心を与え、世界に対する、ほんとうの理解をもたらしたのだろうか。ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの錦が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。
 私たちは見ようと思うものしか見ることができない。そして見たと思っていることも、ある意味ではすべてが空目なのである。(福岡伸一『世界は分けてもわからない』講談社現代新書2009年p.163)

「本当は全く偶然の結果なのに、そこに特別のパターンが見えてしまう」ことを眼の「空耳」として「空目」と福岡伸一が記していたのが印象深いが、『大辞林〔第四版〕』には「空目」が立項され、第一義として「見えないのに見たように思うこと」と記されている。田村友一郎がタイトルに採用した"Sky Eyes"は「空目」の直訳による造語なのだろうか。田村は「空=sky」からの視点として人工衛星(≒GPS)までしっかりと持ち込んでいる。展示空間の中空にあるモニター(ナレーション)が、「空目」としてインスタレーションを統合する演出も見事。

マクドナルドに象徴されるアメリカや資本主義と対置されるアブラヤシのプランテーションカップの中のコーヒーの中に落とし込む力業が素晴らしい。
"coffee or muddy water"、"rock or face"とoar(オール)と共鳴するorがナレーションに現れる、間の部分に"nor"を聞くとすれば空耳か。


小林エリカの《彼女たちは待っていた》について
オリンピック=聖火=プロメテウスと原子爆弾=ウラン=ウラヌスを軸に、日本にオリンピックは到来せず、原子爆弾が投下された歴史を描き出す、写真・映像を中心としたインスタレーション
近代オリンピックで始めて聖火リレーが行われたのはナチス・ドイツのベルリン大会(1936年)のことだという。インスタレーションは、チェコのヤーヒモフにある建物に残された1936年のオリンピックのレリーフを写した写真から始まる。そのヤーヒモフでは16世紀に銀を採掘したが、鉱夫が病気になる「不幸の石」も産出した。18世紀になってその「不幸の石」から発見されたのがウランだった。ナチスは後にチェコを占領し、戦争捕虜たちにヤーヒモフでウラン鉱石を採掘させた。ウランの核分裂反応を利用した爆弾の開発が進められていたのだ。ナチスの同盟国である日本は、ベルリン大会に次いで1940に年に東京で五輪を開催する運びだったが戦争により開催権を返上することになった。聖火はもたらされることはなくなったが、ドイツから潜水艦でウランを輸送する計画が存在していたという。だが潜水艦はアメリカに投降し、ウランが日本に持ち込まれることはなかった。

プロメテウスとウラヌスとを軸にしたストーリーが緊密な因果関係を伴って流麗に展開されることに圧倒される。展示室内は照明が落とされ、写真・テキスト・イラストレーションなどから成る作品だけが浮かび上がる。とりわけ掌で束の間燃え盛る炎をとらえた映像作品《わたしの手の中のプロメテウスの火》が美しく、いつまでも見ていられる。