展覧会『小林耕平個展「ゾ・ン・ビ・タ・ウ・ン」』を鑑賞しての備忘録
ANOMALYにて、2019年10月19日~11月9日。
小林耕平が、伊藤亜紗の文章『ゾ・ン・ビ・タ・ウ・ン』(消去・リメイク・うずしお・再生・タイムトラベル)から抽出した課題に対処するため制作したオブジェと、山形育弘とともにそのオブジェを屋外で実際に使用する様を撮影した映像とで構成される展覧会。
小林耕平は「ゾンビといっても、通俗的な意味でのゾンビではなく、物体を再生させることで立ちあがる、『その物体とは別なもの』のことであ」り、「テキストを設計図とし、ゾンビを再生させるためのオブジェクトを作成する」という。
消去するために「ない」との否定辞を付けることで、かえって否定すべき対象が存在感を強めてしまう恐怖。何かに「なし」と付け加えることで何かが「たつ」。物体の再生により『その物体とは別なもの』が出現してしまう、未知の姿に対する恐怖。高層ビルを撮影した写真の裏側は白紙であることで物事の表面しか見ていないことに気が付く。
砂に描いた絵は他所に持ち出すと姿を失ってしまう(形態の消滅)。ボールの回転を表わす線を立体作品にすることで動きを止める(あるいは違う動きを始める)(動きの消滅)。地面から泥団子をつくることで移動可能にする(基盤の消滅)。
裏声(音=振動)でモノを消去する試み。恐怖(震え=振動)でモノを動かす試み。
如雨露とペットボトル、クッションと方眼紙など、オブジェはいずれも日常的なものでつくられている。小林は「ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものをつくる人」、すなわち「ブリコルール(bricoleur)」である。
でき上りはつねに、手段の集合の構造と計画の構造の妥協として成り立つのであるから。でき上ったとき、計画は当初の意図(もっとも単なる略図にすぎないが)とは不可避的にずれる。これはシュールレアリストたちがいみじくも「客観的偶然」と名づけた効果である。しかしそれだけではない。ブリコラージュの詩は、そのほか、またとりわけ、それが単にものを作り上げたり実行することにとどまらないところにある。ブリコルールは、前述のように、ものと「語る」だけでなく、ものを使って「語る。」限られた可能性の中で選択を行うことによって、作者の性格と人生を語るのである。計画をそのまま達成することはけっしてないが、ブリコルールはつねに自分自身のなにがしかを作品の中にのこすのである。(クロード・レヴィ=ストロース〔大橋保夫〕『野生の思考』みすず書房/1976年/p.27)
横山裕一の漫画を思う。小林耕平の作品も建設の過程であり、旅の途中であり、何より思考の過程である。全ては否応なく進行していく。かたやスピード感により、かたや会話により、鑑賞者は、その流れに呑み込まれながら、なおかつそれを楽しむのである。