展覧会『福井篤展「空の何か」』を鑑賞しての備忘録
MITSUKOSHI CONTEMPORARY GALLERYにて、2020年9月9日~21日。
福井篤の絵画展。「空の何か」シリーズ、「Uncommon Deities」シリーズ、「雲と鳥」シリーズなどを中心に、全31点から構成。
展覧会タイトルにもなっている《空の何か》と題された作品は6点展示されている。ウジェーヌ・ブーダンが描きそうな砂浜の波打ち際で遊ぶカップルと空に浮かぶ塔の聳える宮殿、カミーユ・コローが画題にしそうな池畔の少年と空飛ぶ円盤など、ヨーロッパ風の風景絵画にUFOを登場させている。未知との遭遇を想起させるファンタジーとも、不都合な真実から目をそらす警世の画とも解しうる。作者は雲を頻繁に画中に表し、あるいは画題にしていることから、「空の何か」とは、雲を指すのかもしれない。変幻自在の雲は見立てを促す存在であり、想像力のメタファーとも解されるからだ。
《王の帰還》では、ライダースジャケットをまとったショートカットの少女が、肘をテーブルについてついて、手にした『王の帰還』(J・R・R・トールキンの『指輪物語』の第三部)を読み耽っている。喫茶店の店内なのだろうか、秋の夕空に浮かんだ叢雲の壁紙には少女の影が映る。彼女が物語に入り込むように、鑑賞者は絵画の世界に遊ぶことになる。
《一番乗り》では、広大な洞穴の奥に聳える巨大な赤褐色のクリスタルを、洞窟内の断崖に登攀した二人の人物が眺めている。ジュール・ヴェルヌ(1882-1905)の著作の挿絵にありそうな、どこか懐かしさを感じさせるSF世界は、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774-1840)の《氷の海》と《月を眺める二人の男》とを組み合わせることで生み出されたもののようだ。フリードリヒの活躍した時代は博物学の黄金時代の末期に当たる。人々の好奇心が山にも向けられるようになり、アルプス登頂が試みられた時代だった(小泉武栄『登山の誕生 人はなぜ山に登るようになったのか』中央公論新社〔中公新書〕/2001年/p.28-32, 36-37, 39-61)。地球の隅々まで探査が行われると、宇宙やミクロの世界へ、そしてファンタジーの世界へと人々は誘われることになった。ヴェルヌをはじめとするSF作家の活躍する時代が到来する。作者は名画の形式を借りることで、かつて存在した未知への想像力を再生させる。「懐かしい未来」を呈示するのだ。
《水晶を載せてみる》では、舞台のような場所に39冊の本が塔のように積み重ねられている。無数のピンバッジを付けた黒革のライダースジャケットを羽織った女性が、その上に右手で握ったクリスタルの柱を載せようとしている。右腕を伸ばし、右足のつま先に体重を乗せ、左腕・左脚をやや後ろに反らせる姿勢は、バレエのアラベスクに展開しそうだ。本(=言語)により構成された不安定な塔の建造は「バベルの塔」であろうか。塔が崩れ去って様々な言語へと分散する、その後の姿をも想像させる。あるいは、ライダースジャケットを身につけながら裸足である女性からは、規範から逃れて無謀な挑戦を試みる姿を見て取ることもできよう。
《Lemuria 013》は、夕映えの中に姿を見せる、針葉樹が数本立つ中州の黒い影を描いたもの。中央の水平線から下に倒立した像が描かれる。大陸移動説が主流になるまで有力だった陸橋説により主張された仮想の大陸「レムリア」がタイトルに冠されている。ここでも、かつて存在した未知への想像力が再生させられている。《Uncommon Deities 02》で描いたモティーフを、人物を配して再生させた作品でもある。
《Uncommon Deities 28》や《Uncommon Deities 22》は、それぞれやや暗めの緑や紫でまとめた画面にヒトヨダケ(?)が表され、エミール・ガレの作品に通じるものがある。