可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『真珠―海からの贈りもの』(2)ショーン・タン「壊れたおもちゃ」

そごう美術館で開催中の『ショーン・タンの世界展 どこでもないどこかへ』(2020年9月5日~10月18日)では、オーストラリアの絵本作家ショーン・タンの絵本・アニメーションの原画やスケッチなどが紹介されている。会場に展示されている『遠い町から来た話』所収の「壊れたおもちゃ」の原画は、住宅街にある空き地に佇む潜水服の人物を描いたもの。なお、「壊れたおもちゃ」という物語の冒頭は次の通り。

 あいつを先に見つけたのは自分だって兄さんは思ってるかもしれないけど、あれはぜったいぼくが最初に見つけたんだ。高架下の通路を、あいつは落書きだらけの壁づたいにゆっくり歩いてた。だからぼくは言ったんだ、「見なよ、すごく珍しいものがいるよ」
 頭のイカれた人間なら、それまでだって見たことがあった――兄さんの言う、「人生に頭をやられちゃった」ような人たちだ。でもきっとそいつの人生には、とびきり変なことが起こったのにちがいなかった。しんと静まりかえった祝日の町を、宇宙服を着て歩こうなんて気を起こすんだから。ぼくらは郵便ポストに隠れてもっとじっくり観察することにした。近くで見ると、そいつはますます妙ちきりんだった。宇宙服にはフジツボとか、いろんな海の生き物がいっぱいくっついてて、真夏のカンカン照りだというのに、ぐっしょり濡れていた。
 「ばか、ありゃ宇宙服じゃない」と兄さんはひそひそ声でいった。「昔の潜水服だよ、北のほうの海で真珠採りが着てたみたいな。大昔はまだゲンメツ室なんてなかったから、潜水夫はみんな潜水病にかかって、血がレモネードみたいに泡だらけになっちゃったんだ」ぼくのぽかんとした顔をみて兄さんは、はあっとため息をついた。「いい、なんでもない」

(ショーン・タン〔岸本佐知子訳〕「壊れたおもちゃ」同『遠い町から来た話』河出書房新社/2011年/p.21)

原画についての解説によれば、ショーン・タンは、オーストラリア北部の町ブルームにある日本人墓地に着想したという。そこには真珠採取のためにやってきた日本人潜水夫が眠っていた。展覧会『真珠―海からの贈りもの』(渋谷区立松濤美術館にて、2020年6月2日~9月22日)の備忘録で参考にした山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』に、真珠採りのために渡豪した日本人についての記述がある。

 オーストラリアのシロチョウガイも貝ボタンのために徹底的に収奪された。シロチョウガイは世界最大の真珠貝で、これまでフィリピンやインドネシアの限られた海にしかいないと思われていたが、1860年代になると、オーストラリア大陸北岸のアラフラ海にも生息することが判明したのだった。
 シロチョウガイからはバロック真珠や10ミリ前後の円形真珠も時々出たようであるが、それらは発見者が黙って自分の取り分とした。この貝は真珠層が分厚くすべらかで美しいので、ボタン以前は建築用の螺鈿細工、トランプケース、ナイフのハンドル部分などに用いられていた。今日でも校区有腕時計の文字盤に使われている。水深数メートルから130メートルほどの海底に生息し、戦前の日本人はシロチョウガイを「海底の貴婦人」と呼んでいた。
 1860年代からオーストラリアではシロチョウガイ採取が行われるようになった。当初は浅い海域で行われたが、たちまち貝を採り尽くし、次第に深い海に向かうようになった。白人たちは危険の多い海には決して潜ろうとはしなかった。アボリジニーも海に潜る習慣のない種族が多かった。そのため潜水夫として雇用されたのがメレージン、フィリピン人、太平洋の島人たちだった。1883年にはオーストラリア全体で約220隻が創業していた。
 1883年、オーストラリアの船長が来日して、日本人を採用した。これがきかけとなって、和歌山、愛媛、広島、沖縄などの漁民たちが大挙して渡豪するようになった。当時、日本の沿岸漁業は不振をきわめ、漁民は生活に困窮していたが、オーストラリアの潜水漁民は生活に困窮していたが、オーストラリアの潜水夫の仕事は高給だった。しかも、潜水は日本人の得意とするところだった。日本人は勇敢で熱心だったため、たちまち他民族を抜いて頭角を現した。
 真珠採取の拠点は、オーストラリア北岸の東側にある木曜島と、西側にあるブルームだった1900年代はじめ、これらの地域では合計約3000人の日本人が潜水夫として働いており、学校、醤油屋、うどん屋などのある日本人町も建設されていた。
 日本人が渡豪するようになったころ、潜水服や潜水ヘルメットが導入されはじめていた。ヘルメットにはエアチューブがついており、船上の助手がポンプを上下させて空気を海底のダイバーに送る仕組みになっていた。
 司馬遼太郎の『木曜島の夜会』は、木曜島で働いたダイバーたちから当時の様子を聞いたルボルタージュ風の読み物である。そのなかで、空気が無事に送られてくるかという不安、サメが横を通り過ぎてゆく気持ち悪さ、日本人だけが40~50尋(1尋は約1.5メートル)まで潜れたが、35尋を越えると潜水病になりやすかったこと、潜水病ではすぐに死ぬか、死ななくても半身不随になりやすかったことなどが報告されている。
 潜水病とは水圧によって血液循環障害や脳障害などが起こる病気だった。インドではサメなどの大魚が危険だったが、オーストラリアでは水圧そのものが危険だった。目の玉が3~4センチもダラリと飛び出すこともあったが、そういう場合は目玉を眼孔に押し戻す必要があった。潜水夫は概して短命だった。日本人のなかには船の所有者になる者もいたが、多くの日本人は使役される側におり、太陽が出ているかぎり、深くて冷たい海の底で貝を集めていた。
 1903年発布のオーストラリアの移民法では、有色人種の入国は禁じられることになったが、日本人については、木曜島とブルームに限り、「陸上に居を占めざる海上生活者」という位置づけで真珠貝採取に従事することを許可された。
 太平洋戦争が勃発すると、オーストラリアにいた日本人は収容所に入れられ、戦後はほとんどの日本人が強制帰国させられた。1970年代に久原修司という高校教諭が木曜島を調査し、この島だけでも604の日本人の墓があることを突きとめた。ブルームにも869の墓があることが知られている。これらの墓は、約1500人の日本人潜水夫が帰国を果たせず、異国で客死したことを伝えている。

(山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社中公新書〕/2013年/p.123-126)