可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『LIFE コロナ禍を生きる私たちの命と暮らし』

展覧会『目黒区美術館コレクション展 LIFE コロナ禍を生きる私たちの命と暮らし』を鑑賞しての備忘録
目黒区美術館にて、2020年10月24日~11月29日。

命と暮らしをテーマに所蔵作品130点を4章に分けて展観。第1章(展示室A)は「恐怖と不安、そして悲しみ」と題し、駒井哲郎(銅版画集『Composition de la Nuit』10点)、浜田知明(銅版画集『見える人』4点)、小作青史(石版画集『バリエーションD』14点)、飯田義國、名井萬亀、深沢幸雄(版画集『宮沢賢治春と修羅」より』10点)、木原康行(銅版画集『死と転生』)の作品を紹介(計57点)。第2章(展示室A)は「愛しき日々」と銘打って、島村三七雄、清水登之、鈴木誠、澤部清五郎、矢崎千代二、藤田嗣治、宮田武彦、古茂田守介、岡田謙三、篠原有司男、高崎剛、中村義夫、須山圭一、秋岡芳夫の作品を展示(計30点)、第3章(展示室B)は「それでも私たちは今を生きる」と冠して、白瀧幾之助、中村義夫、相笠昌義(銅版画集『女・時の過ぎゆくままに』2点)、小林孝亘、小堀四郎、近藤吾朗、古茂田守介、高畠達四郎、中村紀元、木下晋、山口薫、南政善の作品を陳列(計26点)、第4章(展示室D)は「再び抱き合える日に」と題して、須山計一、野中ユリ(版画集『イリュミナシオン』5点)、矢崎千代二、藤田嗣治、武内鶴之助、中村義夫、青山義雄、小作青史、木下晋、山下新太郎の作品を並べる(計17点)。


【第1章:恐怖と不安、そして悲しみ】
駒井哲郎の銅版画集『Composition de la Nuit』(1970)は、筑摩書房から刊行された『野間宏全集』第1巻のために制作された10点の作品(《首つり》、《囚人》、《解放感覚》、《残像》、《地獄篇第28歌》、《顔の中の赤い月》、《肉体はぬれて》、《暗い絵》、《作家の肖像》、《時計の眼》)から成る。
小作青史の石版画集『バリエーションD』(1976)はモティーフの一部が次の作品へと変容しながらも連なっていく、連絡短編集のような作品14点。

【第2章:愛しき日々】
高崎剛《軽業師D》(1928)。国芳の《文覚上人那智の瀧荒行》や芳年の《芳流閣両雄動》を思わせる縦長の構図。画面下の舞台に立つ人物の肩には縞の竿が置かれ、3階席よりも高く延びる竿の先端には、背中の1点に体重をのせてバランスを取る女性がいる。万国旗や輪つなぎシャンデリアなどに飾られた場内には、大人も子供も、総勢23人の観客が、妙技に見入っている(恋人しか目に入っていない男も1名いるが)。数名の観客は、竿の先にいる女性同様、身を反らして仰向けのようになっている。軽業への没入。すなわち見る者と対象との一体化。見ること、そして見ることの楽しみを絵画化した作品と言えよう。

 見ることが人間にとって特別なのは、人間はなぜか、見ているその対象にやすやすと自己同一化することができるからである。このことはたとえば野球観戦ひとつに明らかである。数千人の観衆が投手と打者の一挙一投足に瞬間的にどよめくのは、観衆が投手や打者に同一化しているからにほかならない。相撲を観戦して手に汗握るのもそうだ。舞台芸術にいたっては、観客を引き込んで自身に同一化させる役者や踊り手こそが名人なのである。芝居小屋を出て役者の仕草を真似、声色を真似る客が多ければ、それは成功した芝居なのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.75)

【第3章:それでも私たちは今を生きる】
相笠昌義の銅版画集『女・時の過ぎゆくままに』からの《うたたね》(1979)は、作家独特のややデフォルメされた少女二人が、どこかその形でなければならないように身を屈めて眠っている姿が描かれる。
小林孝亘《Televison》(1993)は、深海のような室内の暗闇で潜望鏡を伸ばした丸みのある潜水艦がテレビ画面に相対している。ここではないどこかにを映し出すスマートフォンの画面に沈潜する個人の寓意。