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芸術鑑賞の備忘録

映画『花束みたいな恋をした』

映画『花束みたいな恋をした』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。124分。
監督は、土井裕泰
脚本は、坂元裕二
撮影は、鎌苅洋一。
編集は、穗垣順之助。

 

2020年。都内のカフェ。恋人の朱音(萩原みのり)と話していた麦(菅田将暉)は、近くの席に座るカップルが、1つのイヤホンの左と右とをそれぞれが耳に挿して音楽を聴いているのを目にする。ステレオの音声は左右で別々に調整されているんだから、あれじゃ別の音楽を聴いているのと変わらない、と麦は朱音に蘊蓄を垂れている。別のテーブルでは、絹(有村架純)が二人で同じ音楽を聴きたければ、それぞれのがプレイヤーを同時に再生すればいいと恋人の知輝(福山翔大)に主張して、イヤホンを共有するのが醍醐味じゃないのとぼやかれていた。麦が堪えきれなくなり、イヤホン共有カップルのもとに「教え魔」と化して近づこうとすると、絹も麦と同様の行動をとろうとしていたところで、お互いが相手の存在に気が付いた。二人はすごすごと自分の席に戻る。
2015年。絹は、大学3年生。ラーメンを一人食べ歩き「女子大生とラーメン」なるブログに評価を書き付けて2年。1日1500を超えるアクセスがある。お笑いコンビ「天竺鼠」のライヴに行く道すがら、一人ラーメンを食し、ウィンドウショッピングをしていると、ラーメン店でつけた紙エプロンを外し忘れているのに気が付く。慌てて取り外したところ、かつて1度デートした富小路翔真(佐藤寛太)から声をかけられた。一緒に食事に出かけたが、途中で彼は別の女性と消えてしまう。残された絹は、終電を逃し、ネットカフェで時間を潰す羽目に。始発で飛田給に降り立った絹は、家に向かいながら、サッカーのワールドカップ、ブラジル大会で、準決勝でドイツに大差で破れたブラジル国民の気持ちを想像して、自らを慰める。麦は、イラストを特技とする大学3年生。調布駅から徒歩8分、家賃5万8千円のアパートで暮らしている。Googleストリートビューに自分の姿を発見、奇蹟が起きたと周囲の学生たちに画像を見せて回って得意になって以来の面白い出来事、それは交通調査のアルバイトを終えて帰宅すると郵便受けに投函されていた3億2千万円の分譲マンションのチラシだった。気分がわずかに昂揚したのもつかの間、お笑いコンビ「天竺鼠」のライヴがあったことを忘れていたのに気が付き、悄気る。絹は、西麻布のカラオケ店に見えないカラオケ店で行われる、ヤンキー臭を隠し切れないIT関係者のパーティーに、数合わせで参加し、気が付くと隣に座った胃を切除したおじさんの話に付き合わされていた。その帰り、母親からトイレットペーパーを買って来るよう頼まれ、両手に持って京王線に乗ろうと明大前駅へ向かう。終電の発車が迫っていることに気が付き、改札機の前で絹は人とぶつかってトイレットペーパーを落としてしまう。拾ってもらって絹はホームへ駆けていく。ぶつかったのは、麦だった。友人からカラオケに誘われ、好意を寄せている卯内日菜子(八木アリサ)に会えると期待して出かけたものの、彼女は凶兆が見えたとかで不参加だと知って、途中で抜けて終電に乗ろうとしたのだ。麦は絹のトイレットペーパーを拾い、絹の後に続くが、ICカードの残高が不足していて改札を通れなかった。そこに、終電を諦めたサラリーマン(小久保寿人)に開いている店を知らないかと声をかけられた麦は、やはり終電に乗れなかった絹ともう一人の女性(瀧内公美)と4人で喫茶店に入る。男性と女性は『ショーシャンクの空に』とか『魔女の宅急便』などの映画の話題で盛り上がっている。麦は近くの席に「神」が座っていると仄めかすが、「映画通」の二人は示された人物を見てもぴんと来ていない。結局、同じ高井戸方面の男女がタクシーに乗って去り、麦と絹もその場で別れた。麦が歩いていると、絹が後ろから追ってきて、押井守ですよね、と声をかける。「話せる」と感じた二人は意気投合し、居酒屋へと向かうのだった。

 

極めて似た感性や嗜好を持ち合わせた麦(菅田将暉)と絹(有村架純)とが運命的な出会いを果たした後の顚末を描く。
麦(菅田将暉)と絹(有村架純)とが最初に二人で過ごす居酒屋では、下駄箱に靴を入れる段階で、まず同じ靴だと気が付く。話題にする小説家、マンガ家、作品のタイトルなどが、二人が共通して好きだと分かり、二人が行こうとしていたお笑いのライヴに行けなかったことまで共通していた。日々の生活の中で、興味・関心の一致する機会がほとんどないと感じられるからこそ、偶然一致したときの喜びは大きい。出会いの奇蹟を強調するべく、麦と絹との一致点が積み重ねられている。もっとも、趣味の一致が多ければ、一致が引き起こす摩擦の可能性も高くなってしまう。一緒に見る「べき」ものを先に見ただとか、逆に早く見てくれないと話題にできないだのといった時機の問題があろう。何より、作品に対する評価の齟齬が重大だ。同じ感性を持ち合わせていると感じているが故に、作品に対する評価の差異が、お互いの愛情の差異へと容易に重ね合わされてしまう嫌いがある。「蜜月」から時が経てばなおさらであろう。
麦と絹とが一致し、そこからズレていくことに焦点が合わされ、他の様相は後景に退いているのが特徴だ。とりわけ印象的なのは、麦が好意を寄せている卯内日菜子(八木アリサ)の描き方だ。麦がGoogleストリートビューに見切れていたのを「卯内さん」に伝えようとして、素っ気ない態度をとられる。「卯内さん」に会えると期待して友人たちのカラオケに合流したのに、会えず仕舞い。そして、偶然、居酒屋で鉢合わせした「卯内さん」から直接話したいことがあると言われたのにも拘わらず、次の瞬間には麦は先に帰った絹の後を追いかけていた。思いを寄せていた「卯内さん」との間で麦の心が揺れるような描写があっても良さそうなものだが、全く存在しない。主演二人以外のキャラクターや、小説やマンガや映画といった作品が、ちょうど板橋のガスホルダーのように、二人を描くための背景としてドライに利用されているのである。そして、この構造こそが、この映画がカップルの鑑賞にふさわしい。二人が自分たちの世界に没入するとき、この映画がその美しい書割になるのだから。
「花束みたいな」とは何だろうか。どんなに美しくてもいずれは枯れてしまうというのなら、「花みたいな」でも成り立ちそうだ。それでも、贈り物として切り取られ、束ねられ、差し出されることによる祝福のメッセージは「花束」ならではだろう。「現状維持」を目指し、ドライフラワーや押し花に加工することで保存することも考えられようが、それはもはや当初の花束とは性質を異にしてしまう。放棄されることで、それぞれの記憶の中にだけ咲く存在として残り続ける。この点、ある人物の死が描かれることが示唆的で、その評価が麦と絹とで一致しない。「花束」をどう扱うかの二人の意見の相違でもあるし、同じ「花束」を受け取っても、それに対してぞれぞれの抱く気持ちは異なることが示される。それは、たとえイヤホンをスプリッターで分けて同じ曲を同じプレイヤーで再生してそれぞれがステレオで聴いても、それぞれが受ける印象が異なるのと同じである。
ジョン・カーニー監督の映画『はじまりのうた(Begin Again)』(2013)において、Mark Ruffalo演じる音楽プロデューサーのダンは、Keira Knightley演じるグレタと、ステレオで音楽を共有できるようにスプリッターを使っている。
TBSは、テレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』にラスコー展、本作にミイラ展と、主催事業作品の売り込みに作品を用いて、興醒めだ。