可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 三瓶玲奈個展『熱をさわる』

展覧会『三瓶玲奈「熱をさわる」』を鑑賞しての備忘録
MONO.LOGUESにて、2021年4月2日~5月3日。※当初会期4月26日までを延長。

全て"Touch the heat"と題された油彩画7点と水彩画8点で構成される三瓶玲奈の個展。

「熱をさわる」ための絵画とは一体どんなものだろうか。絵画はいかに熱を表現することが可能なのか。
一旦、身体を使って、熱を表現することを考えてみる。ハンカチで抑えるように額に触れる、団扇や扇子で煽ぐように手を振る、暖炉や焚火に翳すように手を広げる、熱いものに誤って触れたように慌てて耳たぶを触る、飲み物や食べ物を冷ますように吹く。熱そのものは表現できそうにないからと、熱に対するリアクションをとることで代替させることになるだろう。
絵画によって熱を表現する場合、上記のような人物の挙措を描くこと自体は可能である。また、動作による場合と異なって、太陽や焔を描くことも容易だ。だが、それでは対象の像を描いたに過ぎず、熱そのものを描いたことにはならない。赤外線の放射強度による差異を色分けして示したサーモグラフィーは、ちょうど地図の緑や茶の色分けが高さそのものではないように、温度(数値)の高低に色を割り当てたものであって、やはり熱を表現できているとは言えない。青白い星の方が赤い星より表面温度が高いからと言って、オリオン座のリゲルとベテルギウスとを見比べて、リゲルの方が熱いとは受け取らないだろう。

油彩画の画面には、中心に白や黄が縦方向の描線で塗られ、その周囲に橙や赤が囲むように配されている。絵具はあっさりと塗られ、かすれや暈かしも活かされている。花の表現と捉えられそうなものもあるが、つい焔の姿を見てしまうのは、展覧会タイトル「熱をさわる」や作品タイトル"Touch the heat"の影響に違いない。油彩画とは対照的に、水彩画は紺を基調としている。その画面に橙あるいは黄が落とし込まれている。Emil Noldeの水彩画を連想させるのは、滲みや暈かしのためだろう。そして、そのような水彩絵具の持つ柔らかさが、「温かみ」という熱を宿している。
ところで、映画『ライフ・イズ・ビューティフル(La vita è bella)』(1997)は、前半と後半でまるで別作品ように明から暗へと転調する。その中、主人公グイド(Roberto Benigni)の持ち前の明るさが変わらないのだが、変わらないが故に、その明るさがいや増しに眩しく感じられることになる。
熱を測定してその温度(数値)を割り出すことはできるだろう。だが、人が熱を把握するのは、落差(寒暖差)ゆえだろう。イルミネーションの温かみは、暗闇が深いときにこそ強く感じられるのだ。映画なら、ストーリーの展開(時間経過)により、落差を作ることもできよう。だが、絵画の場合、画面の中に予め装置が仕込まれていなければならない。その装置として、寒色の紺と暖色の橙という補色による落差があり、油彩画・水彩画の両者に用いられているのだ。さらに、油彩画と水彩画とで配色を反転させることで、展示作品全体(会場)における落差も構想されている。

(略)その意味で、この書物〔引用者註:ジョン・D・グラハムの主著『芸術における体系と弁証(System and dialectics of art)』〕のはじまりの項目で展開されている議論は注目に値する。要約すれば「芸術とは抽象に至るプロセス」であり、抽象とは感覚によって得られた現象をいかに人が把握するかということ、主観的に感覚される現象から、より普遍的、総合的な秩序=形式を把握する能力、その活動に関わるということだ。この意味で、芸術は視覚(より広くいえば感覚)的な現象に還元され定着されるものではない。この抽象作用という認識プロセスそのものに関わり、それを作動させる動的な装置なのである。(岡崎乾二郞『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房/2018年/p.120)