展覧会『笹山直規個展「Still Life」』を鑑賞しての備忘録
Room_412にて、2020年4月2日~19日。※4月16日以降中止。
死体をモチーフとした笹山直規の絵画・版画展。前半は「KITCHEN MAMA」シリーズと《A FAMILY》の木版画を、後半はインターネット上に氾濫する死体をもとに描いた水彩画を展示。
喉や首を切り裂かれ殺害された若い女性が発見された現場に転がっていたり、あるいは惨殺された女性が検視台の上に横たえられていたり、インターネット上の死体のイメージをもとに描かれた絵画。水彩画の持つ繊細さが活かされ生々しさは薄められているようだが、それでも刺激はある。このような絵画に取り囲まれて思い出したのは、ロベルト・ボラーニョの『2666』だった。その第4部「犯罪の部」はサンタテレサでの連続殺人を扱い、次々に発見される女性の遺体の描写が延々と続く。例えば、次のような記述である。
九月末。エストレージャ丘陵の東の斜面で十三歳くらいの少女の遺体が発見された。マリサ・エルナンデス=シルバと同じく、そしてサンタテレサとカナネアを結ぶ道路で見つかった身元不明女性と同じく、右の乳房が切り取られ、左の乳首は噛みちぎられていた。リーのジーンズ、トレーナーに赤いベストを身につけたいた。とても痩せていた。何度もレイプされ、ナイフで刺されていて、死因は舌骨の骨折だった。しかし、何より記者たちを驚かせたのは、遺体の引き渡しを求める者も、遺体を確認しようとする者もいなかったことだった。まるで、少女がひとりでサンタテレサへやってきて、そこで透明人間のように暮らしているうちに犯人あるいは犯人グループに目をつけられ、殺されたかのようだった。(ロベルト・ボラーニョ〔野谷文昭・内田兆史・久野量一〕『2666』白水社/2012年/p.455※第4部は内田訳)
この第4部には否定的な評価もある。
短編や中編においてはその文才をいかんなく発揮したボラーニョだが、長編になると、細部を際限なく輻輳する悪癖にしばしば陥っている。『2666』の第四部「犯罪」はその典型的な例であり、確かに次から次へと現れる女性死体の描写が小説に重苦しい空気を添えているのは事実だが、これほどページを費やす必然性があるとは思われない。(寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門 ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで』中公新書/2016年/p.199)
「次から次へと現れる女性死体の描写が小説に重苦しい空気を添えている」という指摘に注目したい。女性の死体がたとえ重苦しいとしても作品に「添え」られた「空気」と評されているのだ。例えば、脳死移植も、初期こそ大々的に報道されたが、件数が増えるうちに大きな話題とはならなくなった。繰り返されるうち、どんなに重大な事件も、そのインパクトが薄れていってしまう。女性の死体は、本来看過し得ない出来事の象徴であり、それらに頻繁にさらされていくうちに感覚が鈍磨してしまうことこそ訴えられているのではないか。「連続殺人事件のことなんか誰も気に留めていないけれど、そこには世界の秘密が隠されている」(ボラーニョ・前掲書p.344)のだ。笹山は「どの国の何者なのか、詳細不明な死体が多いのだが、ネットでは様々な死の情報が日々更新されている」と述べ、西洋美術の静物画(英still life、仏nature morte)に倣い死体を絵画にしている。"memento mori"を砂時計や骸骨の寓意ではなくnature morte(死せるモデル)で直接表現しているのは、他の作家には見られない笹山ならではの個性だろう。だが「死体画」は果たして特殊な絵画・表現と言えるだろうか。死体を描くことが直接の目的ではないとは言え、ドラマやアニメで殺人事件が描かれることが何と多いことか。メディアにおける殺人や死体の氾濫にこそ「世界の秘密が隠されている」と思わざるを得ない。