可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 森田舞個展『ground2021』

展覧会『森田舞個展「ground2021」』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2021年5月16日~6月6日。

「ground」シリーズを中心とした絵画14点で構成される森田舞の個展。

《春の孤高、懐を知らず》は、正方形の画面のほとんどを岩壁が占め、画面両端から中央奥の陰に向かって抉られた空洞ができている。画面奥上方に群青の空がのぞき、そこから画面中央下部に向けて円弧を描く三日月が大きく表されている。恰も天から落ちた三日月が大地を削り穴を穿ったかのようである。

 月はむろん満月もよく、またナイフで切り裂いたような三日月や、もっと僅かな、それこそ糸切り歯で千切り裂いたような糸月もよい。そんな細いほうの月をまとめて弦月というときがある。月がやたらに好きな宮沢賢治に、こんなのっぴきならない月の歌があった。
  星もなく赤き弦月ただひとり 空を落ちゆくは只ごとならず
この「只ごとならず」という月の逼迫の現象が大好きで、私はしばしば愛唱している短歌である。きっと賢治はなにごとかに熱中していて、一度見た弦月が数時間後にまたたくまに山の端に落下していたのを二度目に見て、その月のただならぬ速さに感興したのだろう。しかし、月はいつだってただならぬといえばただならぬもの、それは表現者の意図にもよる。賢治は月の落下の速度を描いたが、その弦月が不気味に赤かったということも心の意図にただならぬものを付与していたはずだった。(松岡正剛『ルナティックス 月を遊学する』中央公論新社〔中公文庫〕/2005年/p.65)

三日月の描く円弧の鋭さ、そして西の空に見えたと思えば沈んでしまう「スピード感」(話は逸れるが、焦眉の急に対しては、「スピード感をもって」ではなく、「スピーディーに」当たるべきである)が大地を穿つ刃としてのイメージを作家に与えたのであろう。展示空間の天井に大きな穴が開かれていることによって、月の落下のイメージが弥が上にも増幅される。また、三日月には、箔による輝きが与えられるとともに、掘削した岩石の色が添えられることで、鏡面であることが示されている。

 われわれには「当のものになりたい」という欲望がある。天台教義では「当体全是」といったりする。その当体を何に求めるかというとき、太陽的な自己を設定するという強い方法がある。これはどんな人間にもひそんでいる光輝ある欲望だ。しかし他方、それとはうらはらに自分を別のものに託してみたいという欲望もある。これを私は「自己の他端への投企」とよんでいる。これは月的な自己ということだ。
 いちばんわかりやすい例は「恋」である。
 恋愛というもの、自分のことを相手に投入し、相手のことが自分に反射してしまう奇妙な現象だ。このような意識は、われわれがエゴセントリックにはなりきれないことを告げるとともに、自己というものが何かのリフレクションであるのかもしれないというおもいを知らせてくれる。それはまさしく月的な感情というものである。(松岡正剛『ルナティックス 月を遊学する』中央公論新社〔中公文庫〕/2005年/p.23)

球体である月の「見かけ」を物質化しつつ、写実的な表現の中に違和感を与えるように配する手法は、ルネ・マグリットの《9月16日》に通じる。作家は、横長の画面の漆黒の中に、白んだ赤い波濤のうねりを泡立ちや飛沫とで表現した《標風2021》においても、画面中央からやや左側の手前に三日月を表している。波は月の引力と直接に関係している。赤い波は、女性の身体リズムを連想させもする。

《ground2018 Ⅳ》・《ground2018 Ⅱ》・《ground2018 Ⅲ》は、いずれも光沢を持つ黒い杭(7本、10本、10本)が左上方向に影を落としている様を俯瞰して描いた作品。朱、赤紫、青、緑青などが混ざり合う混沌とした世界は、クロード・モネが晩年に描いた「睡蓮」の連作などをイメージさせるかもしれない。《ground2018 Ⅳ》では中央やや左上に、《ground2018 Ⅱ》では中央上方に、《ground2018 Ⅲ》では中央やや右に、それぞれ満月らしき円が表されているため、《ground2018 Ⅳ》の左側の赤紫に夕景を、《ground2018 Ⅱ》の右側の青に日の出前のブルーアワーと見て、東の空から西の空へと移動する満月を表す三幅対と捉えることも不可能ではない。
《ground2020 Ⅰ》・《ground2020 Ⅱ》・《ground2020 Ⅲ》・《ground2020 Ⅳ》・《ground2020 Ⅴ》・《ground2020 Ⅵ》は、いずれも同じサイズの縦長の画面であり、六曲一隻の作品にも見える。「ground2018」シリーズにおいても入り組んだ色面によって"ground"の変容は感知されたが、影を落とす杭やうっすら描き込まれた草叢のような線の存在や俯瞰構図によって静的な印象が強かった。それに対し、「ground2020」シリーズでは、縦長の画面に、上下の動きを意識させる、のた打つ波のようなモティーフによって、ダイナミックな印象が与えられ、対象に迫り、激しく変動する"ground"(の中)から描いたようである。
《ground2021》では、中央やや下段の中景に、横から捉えた杭の列(「ground2018」との関連)が見える。そのすぐ左手からは満月が昇ろうとしている。うねりの表現(「ground2020」との関連)がそれら(中景)を取り巻くように描かれている。右上には球体と、それに覆い被さる楕円(楕円[ellipse]による蝕[Éclipse])が、その奥に明るい青い空間が覗いている。これらの世界を8羽の朱色の「鳥」が横断している。"ground"は「地面」であるとともに、「基盤となるところ」である。大きく揺らいでいる"ground"を乗り越えて、新しい"(g)round"(=oval)へと鳥は羽ばたいている。

 長期的に見るならば、地殻は変動してやまず、海と陸はその位置を交代してしまう。地球の外皮を覆っている大地は、ゆっくりしていても流体にほかならない。序章で触れたように、私たちは、東日本大震災津波によって、大地とは安定した剛体ではなく、流体であるということを思い知らされた。地球は水と空気でできており、大地とは緩慢に動く水の混じった泥である。剛体は動きの遅い流体である。私たちが住んでいるのは、海洋惑星である。
 流体の存在論に関してもうひとつ指摘しておくべきは、流体は複雑系を構成しやすいことである。複雑系とは、相互に関連する複数の要因が合わさって全体として何らかの新しい性質を見せるシステムのことである。カオス理論の説明でかならず取り上げられるバタフライ効果(とても小さな原因、たとえば蝶々の羽ばたきが、場合によっては嵐になるような結果をもたらすこと。原因と結果の大きさは線形に比例しない)は、風のふるまいの複雑さと予測不可能性の表現である。海の波は干渉し合い、とてつもなく複雑なパターンを描き出す。波は反復する現象のようでいて、一度たりとも同じ波は来ない。実は、世界のどの現象も複雑系である。
 線形システムは、どのようなパラメーター値の変化でも、システム内いそれと比例した変化を引き起こす。しかし、世界のなかで原因と結果のあいだに線形的な法則性が成り立つには、初期条件と周辺(境界)条件がすべて同じでなければならない。そのため、その他の因果性をすべて排除するという理想状況が作り上げられなければ、線形システムは成立しない、だが、そうした世界の断片化は、実際には不可能である。世界の中からある線形の部分だけを取り出せるという発想は、典型的に、剛体の存在論に立つ発想である。剛体の存在論では、世界に部分は他から独立していて、特定部分だけ取り出せるかのように思われるからである。しかし現実の世界では、そうした線形システムを純粋に取り出すことはできない。なぜなら、私たちは海洋と空気のような宇宙に住んでいるからである。海に生きていれば、「ある部分の水を、他を変化させずにそこだけ取り出しなさい」なとという馬鹿げた発想は生まれない。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.114-115)

本展のメインヴィジュアルに採用されている《ground2021(標風)》では、業火が燃え盛る穴へと向かって年老いた太陽が沈む。ある島の状況のメタファーであろう。4羽の白い鳥が新たな"ground"を求めて飛翔を始めているのが救いである。