可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 石川慎平個展『フェアプレー』

展覧会『石川慎平個展「フェアプレー」』を鑑賞しての備忘録
KOMAGOME 1-14casにて、2021年9月3日~12日。

石川慎平の彫刻展。

入口脇の柱に取り付けられた木の棚には、小さなブロンズ彫刻(像高10cm程度?)が置かれている。テネシー州ナッシュヴィルの州議会議事堂前に設置され、2020年のジョージ・フロイド事件をきかけに引き倒されたエドワード・W・カーマック(1858-1908)の立像を模した《easy fall, easy stand》という作品である。彫像の上のモニターで流されている同題の映像作品では、白い空間の中に設置されたカーマック像を正面から捉えている。不意に手が現れて、指に捕まれた像が倒される。その後、像は何回か違う方向に向かって繰り返し倒される。その容易さ、あるいはあっけなさは、像を巡る情勢の変転のめまぐるしさを表わす。因みに、去る9月8日には、ヴァージニア州リッチモンド南部連合軍司令官リー将軍の騎馬像(1890年設置。像高6.4m、重量12トンで、南部連合関連では最大規模)が撤去された。撤去を推進したノーサム州知事は、「公共の記念碑は、我々が自身についてどう語るのかを反映する存在だ。歴史は歴史として扱い、記念碑は、現在そして未来の我々がどうあるかということを表わすために使う時だ」と述べたという(秋山信一「リー将軍騎馬像を撤去」『毎日新聞』2021年9月10日9面参照)。

 イタリア北東部ボルツァーノ市にファシスト党ムッソリーニを顕彰するレリーフを擁する建築物がある。この負の歴史の活用についてコンペが行われた。コンペを勝ち抜き2017年に完成したのは、「従う権利は誰にもない」という1文をレリーフの中央にネオンサインで上書きするというプランだった。これはレリーフに刻まれていたファシズムの標語「信じること、従うこと、闘うこと」に対抗させるため、ハンナ・アーレントの発言から取られた。ここで重要なのは、アーレントの黒人差別主義者としての側面が提起され始めていることだ。アーレントの人種主義者としての評価がかたいものになれば、ファシズムを上書きするためのアーレントの言葉はさらに上書きされるのかもしれない。
 差別者、抑圧者はつねに「発見」され続ける。その意味で、歴史とは「恥ずかしさの発見」だと言える。変わってしまうのはコロンブスでもアーレントでもなく、われわれの政体であり価値観である。だからこそ、時代時代の「われわれ」が何に耐えられなかったのか、削除だけではなく上書きし続けていくことが重要ではないだろうか。レベッカ・ソルニットが述べているように、「シンプルなストーリーを別なシンプルなストーリーに置き換える」だけでは「対抗」になりえない。削除するのならば、撤去し、引き倒し、海に投げ入れたあとの空白を何で埋めるのか。上書きするのならば、上書きしたものがさらに上書きされる未来を恐れずに見据え続けること。いま問われるべきは、そのようなことだろう。(小田原のどか「モニュメンツ・マスト・フォール? BLMにおける彫刻削除をめぐって『現代思想』2020年10月臨時増刊号〔第48巻第13号〕p.245)

warp》は酒瓶(おそらくBLANTONS)の栓の騎馬のフィギュアに金色のグリッターを塗り、石の台座に載せて、皇居外苑楠木正成像の立つ辺りの写真を背景に設置している。フィギュアと写真によるジオラマはガラスのケースに納められることで、公共空間の私物化が表現される。併せて、《warp》を撮影した写真も近くに掲出されている。(語義矛盾であるが)自分だけの公共彫刻をそれぞれが見出す「マイ・公共彫刻」時代の到来を訴えるようだ。というのも、公共の場に設置される彫刻が全ての人に受け容れられることはほぼ不可能である。それならば、台座だけを設置し、例えばスマートグラス越しに鑑賞することで、個々の嗜好により好きなイメージをヴァーチャルに「設置」することが想定されよう。もっとも、そのような「彫刻」に存在意義があるかは疑わしいが。
《彫刻 in my head》は、複数の左側面から捉えた騎馬像(楠木正成像も含まれていると思われる)の写真を透明シート(OHPフィルム)に印刷して重ね合わせたもの。北野謙の重ね焼きによる肖像写真「our face」シリーズのように、重ね合わせにより、対象の共通項が浮かび上がる。
《my own dovetail key》は、木製の台座に設置した、犬(ドーベルマン?)に跨がる女性像である。前髪を切り揃えた胸上ロングの女性は、カーディガンを羽織り、裾を捲ったデニム(?)のパンツにスニーカーというカジュアルな装い。《彫刻 in my head》と見比べるとき、女性と男性、普段着と鎧や軍服、犬と馬、"dove"(=平和)と軍馬(=戦争)といったコントラストが鮮明となる。そして、作家は公共彫刻を《彫刻 in my head》から《my own dovetail key》へと転換する意図を、金色に輝くグリッターに秘している。なぜなら、《my own dovetail key》は樟材で作成されており、「楠木」の騎馬武者像から「樟」の女性と犬の像へという目論見を読み取れるからである。