展覧会『菅野由美子展』を鑑賞しての備忘録
ギャルリー東京ユマニテにて、2021年10月4日~30日。※当初会期10月23日までを延長。
マグ、猪口、ティーポット、水差し、豆皿など食器を描いた絵画14点で構成される、菅野由美子の個展。
入口近くの壁面には、欄間のような横長の画面(187mm×638mm)にマグを描いた「MUG」シリーズ6点が2段に並べられている。棚あるいは台に置かれた、形やデザインの異なるマグが、内側が僅かに覗くようにやや上方の視点から写実的に描かれている。《MUG_4》では、黒っぽい灰色の台の中央に1個のマグを置く。《MUG_2》では背板の無い棚に2個のマグを並べ、《MUG_4》では背板のある棚の左側の影を避けるように置かれた2個のマグを描く。3個のマグを配した3点の作品では、いずれにおいても、マグがつくる影が延びる向きが1つだけ異なっている。中でも《MUG_5》では、3個のマグが配されるのが、他の作品のように「棚」や「台」ではなく、淡いレモン色と青味を帯びた灰色との縦縞が"」"型に描かれた平板な部分であり、デペイズマン的な手法により不可思議な印象が強められている。
《Ten_1》(532mm×532mm)は、老竹色と評すべきか、くすんだ緑色の濃淡で正方形の画面を3分割することで、画面中央に奥行きの狭い台を表現している。そこに赤みがかったガラス器、クリーム色の陶器、中国磁器など10個の食器が、同じ向きに影を伸ばして並んでいる。来歴を異にする様々な形の器が狭い空間で共存している。老竹色は見る者に抹茶を、あるいは畳をイメージさせ、ひいては画面の正方形を介して2畳や4畳半を連想させる。茶室である。
にじり口の発生について、『茶道四祖伝書』が次のように伝えている。
大坂ひらかたノ舟付ニ、くゞりにて出入りを侘て面白とて、小座シキをくゞりニ易仕始るなり、
という話で、利休が淀川の枚方の舟付場に係留される川舟の入り口が小さくて、乗りおりする人々の姿がいかにもわびた風情であると気に入ってその出入り口を茶室に採用したことになっている。単に姿がよいというだけではなく、舟というものが、板子一枚下は水底という運命共同体であり、さればこそ、呉越同舟という世界が成立するように、茶室にいったん入ってしまえば、そのなかは俗世の因縁を離れた運命共同体であるとの考えが、利休の脳裏に働いていたかもしれない。(熊倉功夫・井上治『日本の伝統文化シリーズ5 茶と花』山川出版社/2020年/p.76〔熊倉功夫執筆〕)
「茶室にいったん入ってしまえば、そのなかは俗世の因縁を離れた運命共同体である」という理念が、《Ten_1》に表されているとは言えまいか。
《Three_13》(910mm×910mm)では、棚や台の形は一切表されず、消炭色の画面に、いずれもクリーム色の肌をした陶器の瓶、ティーポット、小型の蓋物が写実的に描かれている。瓶だけは表面を植物の文様がびっしりと埋め尽くし、他の2つは無文である。透明の釉薬がかかっているのだろう、ぬるっとした光沢が暗い無地の画面の中で生命感を生じさせている。棚のような現実的な場面が描かれるとき、画面の中には生活の場が再現される。人間によって使用されたり鑑賞されたりする器物は当然のことながら無生物として存在する。ところが本作品のように抽象的な画面に表されると、器物は現実の約束事から解き放たれて、生命を吹き込まれる。艶めかしい姿を現すのだ。ところで、暗い画面の中で光によって浮き立つ器物は、ヴァニタスを連想させる。画面上部中央に配された漆黒の長方形は、頭蓋骨の代替物となる深淵であろう。器が象徴する人間が、その闇に向き合っているのだ。これが「死を忘ることなかれ(memento mori)」とのメッセージでなくて何であろう。