展覧会『東アジア絵画のなかへ―収斂と拡散 vol.3 容器 張静雯個展』を鑑賞しての備忘録
柴田悦子画廊にて、2021年11月1日~6日。
集合住宅を題材とする絵画23点で構成される、張静雯の個展。
《扉の向こう》(910mm×1167mm)は、集合住宅の4階層を青灰色の濃淡で表す作品。開放廊下と手摺壁とが4段、水平に並び、各階には、部屋ごとのドア、室名札、窓、面格子が規則的に配されている。因みに、一番下の手摺壁だけはルーバー(?)のスタイルになっており、1階であることを示すようだ。一方で、住まうための建築でありながら一切人影の無いことが、直線で構成される空間の無機質な印象を強めている。他方で、わずかに開かれたドア、窓に掛けられた簀垂れ、窓越しに見える洗濯物の影などが人の営みを伝え、水気を感じさせる滲みが無機質な印象を和らげるのに効果を上げいてる。小村雪岱が《青柳》において、畳敷きの部屋に三味線と鼓だけを描き込むことで不在の人物を想像させたのに比して、「小道具」や「演出」によって遙かに幽かにその場にいない人物の生活を思い描かせる。
《青い秩序》(530mm×530mm)は、集合住宅の11.5階層を手摺壁、窓、隔板の並びで表現した作品。手摺壁は、水平ではなく、右下にやや傾ぐ形で描かれている。階ごとの差異はほぼ見当たらず、中層部分を切り取って描いているものと考えられる。反復されるモティーフは、傾斜の生み出す動きと相俟って、増殖をイメージさせる。この部屋の増殖という点に着目すると、生産年齢人口の増加を前提とするはずの経済成長に執着するパラノイアを象徴しているように見える。他方、誰の姿も見えない「がらんどう」の集合住宅であることに注目すれば、空き室が増えてゴースト・タウン化する人口減少社会のメタファーとして立ち現れるだろう。
《Room I》(420mm×297mm)では、集合住宅の部屋の内部が描かれている。手前から奥に向かって、右手にクローゼット、右手に台所、そして放たれた扉の奥に窓を有する部屋が並ぶ。正面奥の窓枠が「田」に近い形を呈しているが、方形の中に十字を見ると、身廊から内陣へと連なる教会のような構造が見えてくる。窓の存在により白んでいる部屋に向かって明るくなっていることも、教会の見立てを促す。また、室内には誰1人の姿も何1つ物が見当たらないこともあって、十字の窓枠から室内に光りが射し込む、ヴィルヘルム・ハンマースホイ(Vilhelm Hammershøi)の《陽光、あるいは陽光に舞う塵(Solstråler eller Solskin)》との共通性を看取可能だ。引かれたドアの奥に窓が覗くという点ではやはりハンマースホイの《白い扉、あるいは開いた扉(Hvide døre)》に近いと言える。
《Room VI》(300mm×300mm)には、集合住宅の部屋をベランダに出ることのできる窓に正対する構図で描いている。床、窓、壁以外には備え付けのエアコンだけで、人の住む気配がない。《Room V》(300mm×300mm)には、部屋の角に向かって、左側の窓のある壁と右側の窓の無い壁、そして床が描かれている。やはり物は何もないが、カーテンがかかっていることが人の存在を示唆する。窓にカーテンの無い《Room VI》と併置されることで、カーテンの意味が強調されている。
ところで、河津晃平のヴィデオ作品《Room for》は、無人の大学施設の内部をカメラを固定して撮影することで、光や音を放ち続ける機械の存在を浮かび上がらせた。新型コロナウィルス感染症のパンデミックを経た後には、カタストロフにより人のいなくなった世界を描く黙示録とも解される作品である。通電して機械が作動している情景に、人々の再来に対する希望を読み取ることもできよう。これに対し、やはり人気の無い建築物をテーマとする張静雯は、例えばアクリル絵具やペンなどの硬質さを感じさせる技法ではなく、日本画の技法を採用し、柔らかな描線や滲み・暈かしによって人々の痕跡、そして息遣いを画面に忍び込ませる。アスファルトの隙間に蔓延る雑草のような人々の逞しさをごく静かに表し、現代の都市における、あるいはカタストロフの先にある"Life goes on."を訴える。