映画『皮膚を売った男』を鑑賞しての備忘録
2020年製作のチュニジア・フランス・ベルギー・スウェーデン・ドイツ・カタール・サウジアラビア合作映画。104分。
監督・脚本は、カウテール・ベン・ハニア(Kaouther Ben Hania/كوثر بن هنية)
撮影は、クリストファー・アウン(Christopher Aoun)。
編集は、マリー=エレーヌ・ドゾ(Marie-Hélène Dozo/ماري هيلين دوزو)。
仏語題は、"L'Homme qui a vendu sa peau"、アラビア語題は、"الرجل الذي باع ظهره"。
ホワイト・キューブの展示室に2人のスタッフが額装された作品を運び込む。作者のジェフリー・ゴドフロワ(Koen De Bouw/كوين دي باو)が指示を出し、壁に掛ける位置を調整する。額縁の中にはカラフルなタトゥーが施された皮膚が収められていた。
2011年。シリア。サム(Yahya Mahayni/يحيى محياني)が恋人のアビルン(Dea Liane/سام علي)と列車に乗っている。サムはアビルンの身体に触れていたいが、家族に知られると困ると距離をとるアビルン。男の人と会うの。どんな相手? ベルギーのシリア大使館に勤めている人、家族を安心させるためよ。君は僕のことをどう思ってるの? あなたのことを愛してるわ。サムは彼女抱き寄せると、乗客に向かって宣言する。自由のためには革命が必要だ! 僕はこの女性と結婚する! 導師は乗り合わせていなかったものの、ミュージシャンがいて、彼の奏でる音楽に合わせて2人が踊るのを周囲の人々が温かく見守った。
サムは逮捕され、既に収容者でいっぱいの狭い部屋に勾留された。取調べが行なわれると、サムは担当の警察官に逮捕理由が分からないと訴える。分かってるはずだ、お前は革命を訴えただろう? その警察官は運良く親戚であったため、金網の外れた窓から逃走するのを黙認してくれた。身につけたシャツと似た柄の積み荷を積んだトラックの荷台に乗せてもらい、サムはアビルンの家を目指す。アビルンは見合相手のジア(Saad Lostan/سعد لوستان)といた。窓から合図して外に呼び出したアビルンにサムは国内にはいられないと告げる。アビルンは彼女を追って表に現れたジアに力を貸して欲しいと訴えるが、助力は出来ないと断られる。
サムは姉(Najoua Zouhair/نجوى زهير)の自動車の助手席のシートの中に潜み、レバノンに向かう。
ベイルートでは、同郷のハージモン(Jan Dahdoh/جان دحدوح)と部屋を共有し、養鶏企業の孵化場に勤務することになった。サムはアビルンが見合相手のジアと結婚したことを知るが、アビルンの気持ちは自分に向いているはずと、スカイプで連絡を試みる。サムはハージモンと時折、ギャラリーの内覧会に忍び込み、ビュッフェ・テーブルから食べ物をくすねていた。ある晩、サムは1人でギャラリーに向かった。受付を通り過ぎようとしたところ、名前を尋ねられる。勝手に会場に立ち入るシリア難民を受付係が警戒していたのだ。サムは電話がかかってきたふりをして、他の招待客に紛れて会場内に入り込む。受付係から連絡を受けたソラヤ(Monica Bellucci/مونيكا بيلوتشي)がサムを見咎める。残飯でよろしければ後ほどご用意致します。サムは憤慨してギャラリーを出る。作家のジェフリー・ゴドフロワがシリア難民の侵入者と聞いて、サムを追う。君、一杯おごりたいんだ! サムはジェフリーと飲み交わす。ジェフリーがベルギー出身のアメリカ人アーティストだと知ると、サムは恋人がベルギーにいると告げる。会いに行かないのか? 無理だね、彼女に会いに行く馬がない。必要なのは空飛ぶ絨毯だろう? ジーニーなのか? メフィストフェレスかもな。魂を取ろうってわけか。欲しいのは君の背中だ。君の背中をアート・ワークにするつもりだ。人よりも商品の方が世界を自由に動き回れる。商品化で人間性を回復するなんて皮肉なことだがね。
シリアからレバノンに亡命したサム(Yahya Mahayni/يحيى محياني)は、忍び込んだ展覧会でベルギー出身のアメリカ人アーティスト、ジェフリー・ゴドフロワ(Koen De Bouw/كوين دي باو)に声を掛けられ、背中にシェンゲン・ビザのタトゥーを入れて作品にしたいと提案される。外交官のジア(Saad Lostan/سعد لوستان)と結婚してベルギーで暮らす、恋人のアビルン(Dea Liane/سام علي)に会うべく、サムは作家と契約を交わし、「展示」のためベルギーに飛ぶ。
新型コロナウィルス感染症のパンデミックは、日常生活が世界と「地続き」であることを改めて実感させる出来事である。否、食糧自給率37%が象徴するように世界との接続が無ければ生存不可能なのだ。もっとも、それは今に始まったことではない。例えば正倉院に白瑠璃碗が転がりこむとき、藤原四兄弟も疫病に斃れたのだ。本作の焦点の1つは、人の移動が物(商品)の移動よりも難しいという現実を炙り出すことである。人を「美術品」にすることで、すなわち売買の対象にすること(非人間化)で、人の移動を円滑にしよう(移動の自由の確保しよう)という逆説的な解決策が提示される。
冒頭、2人のスタッフが作品を展示室へ運ぶ場面から、鏡像が用いられて、複雑な過程として見せている。サムがジェフリーの代理人であるソラヤと契約を交わす場面など鏡やガラスの映像を画面に取り込むシーンが頻繁に登場する。クロージング・クレジットにおける、(右から左に読む)欧文と(左から右に読む)アラビア語との並記も恰も鏡像のように見えてくる。このような「鏡像」イメージを散りばめるのは、難民問題を扱った作品を対岸の火事と捉える鑑賞者に対し、自らの問題として思考するよう促す鏡として作品を機能させるためではなかろうか。かつて、ジョゼフ・コンラッドが『闇の奥』において、アフリカの収奪を象徴するクルツなる人物に読者の姿を映し出させたように。
じつは『闇の奥』には、もう一段深い奥がある。クルツの「暴走・逸脱・堕落」と見える異常な行為には、イギリスのふつうの国民のふだんの暮らしがひそかに投影されていたのだ。そこでは、クルツを衝き動かしていたのとまったく同じ衝動が、大英帝国臣民の文化の推進力となっていた。
19世紀末のイギリスでは「アフリカ」ものや「黒人」ものといえる"商品"が、大衆消費文化のなかですでに大量に流通していた。万国博覧会、展示会、品評会、定期市をいろどるアフリカ・コーナー。見世物小屋では、動くパノラマの「ナイル川の旅」やアフリカ・ショーの「正真正銘ブッシュマン」。企画団体旅行だと、「東アフリカ猛獣狩りツアー」。貿易会社やデパートの通販カタログにあふれるアフリカ・グッズ。たばこ・ビスケット・石鹸の広告やパッケージにも、黒人はおなじみの図柄。家庭では、居間にアフリカ趣味のインテリア、子供部屋にアフリカ探検すごろく。
これらはみな、世界を見て回り、珍品を愛でる、「お宝ゲットの旅」を娯楽化したものであった。もともとは博物学の現地調査、そして英雄的な奥地探検、しかしつまるところは英国の植民地獲得であるという実態である。「移動→収集→展観」という手続きで、他者を自分のヒエラルキー(価値体系)に隷属させる帝国主義の枠組みは、レジャーかされていたのである。黒人や奥地を商品として消費する態度は、「スラム見物(slumming)」という形で国内の貧窮にまで及んだ。この「わが心に潜む帝国主義」を、人々の意識の表面に浮かびあがらせた爆弾が『闇の奥』だったのだ(ジョゼフ・コンラッド〔黒原敏行〕『闇の奥』光文社〔光文社古典新訳文庫〕/2009年/p.199-200〔武田ちあきによる「解説」〕)