可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 土井沙織個展『魔女見習いの夜』

展覧会『土井沙織個展「魔女見習いの夜」』を鑑賞しての備忘録
ARTDYNEにて、2022年1月29日~2月13日。

絵画17点で構成される、土井沙織の個展。表題作の《魔女見習いの夜》を除き、全て動物のキャラクターが主要なモティーフとなっている。個々の作品について作者が解題したシートが会場に用意され、愉快で独特なテーマやキャラクターを知ることができる。

表題作《魔女見習いの夜》(1650mm×1700mm)には、白っぽい樹皮を持つ木の枝に腰掛け正面を見据えるあどけない少女が中央に描かれている。腰掛けた枝の傾斜のために傾ぐ体を、左右の手それぞれが枝を摑むことでバランスを取っている。裸足の足が宙に浮いている。それは魔女が持つとされる飛翔能力を連想させるとともに、かえって未だ飛翔できない――木の枝に腰掛けているに過ぎない――魔女の「見習い」であることを示している(なお、魔女は裸で表わされることが多く、裸足もまた「見習い」イメージの生成に一役買っている)。少女の背後には孔雀がいて、その広げた羽が光背の機能を果たしている。その光の強さのためか影となっているが少女の周囲には動物の姿が闇に溶け込むように存在する。樹間の馬を描く《月夜の音》(702mm×911mm)、草花から顔を覗かせる羊を描く《ガーデン》(702mm×910mm)、葉陰を歩む鳥を描く《死者たち》(922mm×922mm)においても、植物と動物とが渾然となる様子が表わされている。月光を浴びて金色に染まる馬(《月夜の音》)、異界との往来により変異する鳥《死者たち》が、境界の曖昧さや遷移可能性を表現する。掌に載る鶏を描いた《ハウス》(250mm×201mm)とそれに付された作者のコメント「どこで何をしても誰と暮らしても、一人で死んでも、わたしたちみんな大きなものの手のひらの上。」がそれを裏付けていよう。

 18世紀まで、魔女は風の速さに乗って飛ぶことができる、と一般に信じられていた。魔女をそのような方法で運んだのは、たぶん、魔ものか、ヤギや怪獣の姿をした悪魔か、それとも、魔法をかけられた杖、ほうき、熊手か、魔法の棒であったろう。(カート・セリグマン〔平田寛・澤井繁男〕『魔法 その歴史と正体』平凡社平凡社ライブラリー〕/2021年/p.347)

杖、ほうき、熊手のような「棒」に跨がり「飛翔」する。そこには騎乗位(=女性上位)のイメージが重ねられている。それは「正常」位(=宣教師の体位)からの「逸脱」である。

 〈宣教師〉の体位のおかげで、体液を浪費せずに効率的に種の結実をもたらし、快楽を最小限にとどめて男性の優位を維持することが可能になる。当時の聖職者が神聖視していた表現に寄れば、「貴重な精液が女の器から漏れて流れ出すことがない」すばらしい循環がもたらされるというのだ。そしてこの体位は、男が女よりすぐれた役割を担っていること、支配者・主人として女をその身体の下に押しつぶしてもよいことをはっきりさせてくれる。(アンナ・アルテール、ペリーヌ・シェルシェーヴ〔藤田真利子・山本規雄〕『体位の文化史』作品社/2006年/p.42)

「魔女」が正常から逸脱するとして迫害される理由の1つは、「生殖につながらない性を謳歌する放縦な身体」すなわち「男性を性的に翻弄する」ことにある(シルヴィア・フェデリーチ〔小田原琳・後藤あゆみ〕『キャリバンと魔女 資本主義に抵抗する女性の身体』以文社/2017年/p.387〔小田原琳「訳者解題〕)。

 (略)しかし、魔女狩りがそれまで閉じ込められていた地下から表へ出ることができたのはフェミニズム運動があったからであり、フェミニストが魔女に共鳴したことによって、魔女は女性の反乱の象徴として取り入れられたのである。何十万人もの女性が殺戮され残虐きわまりない拷問にさらされたのは、女性たちがが権力構造に挑んだからに他ならないと、フェミニストはすぐに気づいた。そして、少なくとも2世紀にわたる女性に対する戦争は、ヨーロッパの女性の歴史にとって転換点であり、資本主義の出現によりこうむった社会的価値の切り下げの過程における「原罪」であること、それゆえに、それは制度的実践や男性と女性の関係をいまも特徴づけているミソジニー女性嫌悪)を理解しようとするならば何度でも立ち返るべき現象であるということに、フェミニストは気づいた。
 (略)
 (略)魔女狩りが起こった歴史的状況や被告人のジェンダーと階級、迫害の効果を鑑みれば、ヨーロッパの魔女狩りとは資本主義的諸関係の拡大に対する女性の抵抗への攻撃であり、女性がみずからのセクシュアリティの長所によって得てきた力、再生産能力の管理や治癒能力に対する攻撃であったと結論づけるしかない。
 魔女狩りは、女性の身体、労働、性的能力や再生産能力を国家の管理下に置き、それらを経済的資源に変容させる新たな家父長主義体制を創出する手段ともなった。(シルヴィア・フェデリーチ〔小田原琳・後藤あゆみ〕『キャリバンと魔女 資本主義に抵抗する女性の身体』以文社/2017年/p.260, p271)

冒頭に展示された《バア》(141mm×148mm)は、両手(前肢)で両足(後肢)を支えて股覗きする、剽軽な動物の姿が表わされている。鑑賞者に対して肛門を見せる姿勢は、ソドミーという生殖目的以外の性交の表現であり、やはり逸脱、すなわち魔女のメタファーと知られる。正常と異常との境界を平気で侵犯し、あるいは常識なるものを攪乱する魔術への嗜好が通底している。

本展に出品作品は、いずれも厚みがあり、上下左右の側面全てが着彩されている。《魔女見習いの夜》のような大画面ではあまり気にならないが、《バア》を初めとする小画面の作品では、厚さが際立つ。ざらっとした画面の印象と相俟って、こんがりと焼かれた厚切りトーストのような印象を生んでいる。

元来食物の味といふものはこれは他の感覚と同じく対象よりはその感官自身の精粗によるものでありまして、精粗といふよりは善悪によるものでありまして、よい感官はよいものを感じ悪い感官はいゝものも悪く感ずるのであります。同じ水を呑んでも徳のある人とない人では大へんにちがって感じます。パンと塩と水とをたべてゐる修道院の聖者たちにはパンの中の糊精や蛋白質控訴単糖類脂肪などみな微妙な味覚となって感ぜられるのであります。もしパンがライ麦のならばライ麦のいゝ所を感じて喜びます。これらは感官が静寂になってゐるからです。(〔宮沢賢治〕「ビヂテリアン大祭」『〔宮沢賢治〕全集6』〔ちくま文庫〕81頁)

 パンを例にあげながら賢治がここで語ろうとしているのは、簡素な主食や菜食によって、味わう人間の感官器官のほうが高められてゆくという真理についてです。もともと味とはかならずしも食物の方にすべて具わっているのではなく、それを食す者の「感官」(=感覚器官)の繊細さによって生み出される。しかもそのときの「感官」とは生理的な感覚だけではなく、善悪をめぐる倫理的な感覚さえ含む……。「主食」というものが思想を生み出しうるとすれば、それはまさにこのような舌=感官の繊細な感覚的エシックスを私たちが発見したときなのです。私たちの「感官が静寂になってゐる」とき、すなわち感官が慎ましく微細にはたらいているときにこそ、パンのなかに隠れた小麦やライ麦の味の美質(=「いゝ所」)を私たちは慈しむことができるのです。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.210-211)

 

何を酌み取ることができるのか。見る者の「『感官』(=感覚器官)の繊細さ」こそが問われている。