可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─』

展覧会『VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─』を鑑賞しての備忘録
上野の森美術館にて、2022年3月11日~30日。

学芸員や研究者などによって推薦された40才以下の作家31人と2組の新作を展示。

张小船(Boat Zhang)の《CLOSEDからCLOSEへ(私はペストで私はペストキラー)》は、閉ざされたガラス扉に掛けられた"CLOSED"の案内板を描いた油彩画に、作品の概要の説明、ディスプレイに表示された文字が拡大によってぼけたような効果を持つ「永住」の文字、ヨガの「デッド・バグ」のポーズと仰向けの虫とを取り合わせたイメージの3点を取り付けたものと、絵画の隣に設置されたモニターに流されるパフォーマンスの記録映像から構成される。
絵画に表わされたガラスの扉は、4枚のガラス板それぞれに金属の棒状の持ち手が取り付けられたもので、その向こうには無機質な広い空間がぼんやりと見えている。だがそのガラスの扉には"CLOSED"と記された案内板が2枚掛けられている。否、一方は「永住」と不明瞭に記された絵画が掛けられているために"D"が見えず、"CLOSE"となっている。これがタイトルにある"CLOSEDからCLOSEへ"を示すものだ。ところで、映像作品に登場する、作家の行なったパフォーマンスの1つに、近所の豪邸を1軒1軒訪ねてまわり、表札に記された名を誰もいない門に向かって呼びかけるものがある。それは閉ざされた(CLOSED)門に向かって、親密な(CLOSE)関係にあるかのように振る舞うパフォーマンスである。それは、閉ざされた世界に対して親密な呼びかけを繰り返すことで、果敢に扉を開けようとする試みであると言える。

 「彼が義務を果たしたなんて、なぜお思いです?」とKは聞き、「義務を果たさなかったじゃありませんか。だっておそらく彼の義務というのは、他の者はみんな拒絶して、その入口から入ることに定められていた男だけは、とおしてやることだったんでしょうから」
 「あなたはこの本にじゅうぶんな敬意を払っていません。そして話を勝手につくりかえているのです」と僧は言った。「この話のはじめとおわりのところで門番は、掟のなかに入る許可について、2つの重大な解明をおこなっています。一方の個所では、男に対して今入ることは許せない、としてあり、もう1個所では、この入口はおまえだけに定められたものだ、となっています。もしこの2つの言明のあいだに矛盾があるのであれば、あなたの言い分が正しいわけで、門番は男をだましたのです。ところが矛盾はないのです。それどころか、第一の言明は、第二の言明を暗示さえしているのです。(カフカ〔辻瑆〕『審判』岩波書店岩波文庫〕/1966年/p.319-320)

作家はまた、左右の足首に「はい」と「いいえ」のタトゥーを入れることで、歩くために「はい」と「いいえ」がともに必要となることを訴えるパフォーマンスを行なっている。

 ある種のイメージは補完的矛盾律を免れているが、すべてのイメージがそうであるわけではない。おそらく他の論理体系に関しても同じことが言えるに違いない。ところで、詩は相対立するものの動的、かつ必然的共存だけではなく、その究極的同一性をも宣言する。そしてこの和解――これはそれぞれの名辞の特性の減少や変質を意味しない――こそ、確かに今日まで、西欧思想が跳びこえたり、穴をあけたりすることを自ら拒んできた壁なのである。パルメニデース以来われわれの世界は、存在するものと存在しないものとの間に截然たる一線が画された世界であった。存在は非=存在ではないのだ。この最初の分離――なぜなら、それは原初的混沌から存在を引き離すことであったから――が、われわれの思考の基礎を形成している。こうした概念の上に〈明晰な観念〉の体系がうち立てられたのであるが、もしこれが西欧の歴史を可能にしたとするなら、これはまた、こうした原理に基づかない別の方法で存在を把握しようとするあらゆる試みを、一種の不法行為として断罪してきたのである。かくして神秘主義や詩は、矮小化された隷属的な地下生活を送ってきた。その亀裂は表現しえない、恒常的なものであった。このような詩の追放の結果は、日に日に明らかに、そして戦慄的になっている――人間は宇宙の流れと自分自身から追放されているのである。なぜなら、今や西欧の形而上学が唯我論に行きつくことを知らぬ者はいないからである。(略)
 東洋思想はこのような〈他者〉に対する、つまり、存在し同時に存在しないものに対する恐怖を覚えることはなかった。西洋は〈これかあれか〉の世界であるが、東洋は〈これとあれ〉の、さらに言えば〈これすなわちあれ〉の世界である。すでに最古のウパニシャッドの中で、対立するものの同一律が端的に示されている――「汝は女なり。汝は男なり。汝は若者にして、また乙女なり汝は老人のごとく杖にすがり……。汝は根性の鳥にして、かつ朱眼の緑鳥なり……。汝は季節にして海なり」。こうした考え方は、チャンドガウパニシャッドにおける、「汝はあれである」という有名な公式に凝縮されている。東洋思想の全歴史は、西洋の思想がパルメニデースに端を発しているのように、この最古の主張から出発しているのである。これこそ偉大な仏教哲学者やヒンズー教聖典註解者たちの、変わることなき思索のテーマである道教も同じような傾向を示している。すべてこうした教説の繰り返し説くところは、これとあれの対立は、同時に相対的であり必然的でもあるのだが、われわれには相容れないと思われていたもの同士の敵対関係がやむ瞬間がある、ということである。(オクタビオ・パス牛島信明『弓と竪琴』岩波書店岩波文庫〕/2011年/p.168-171)

作家の行なうパフォーマンスの中に、夜中の害虫を駆除がある。「私はペストキラー」を表わすものだ。他方、ヨガの「デッド・バグ」のポーズを取ることで死んだ害虫(pest)になる。それが文字通り「私はペスト」であることを示す。のみならず、作家が在留資格更新のため訪れた東京出入国在留管理局の建物から続く異様に長い行列の映像は、入管施設における収容者虐待問題に象徴される劣悪な「おもてなし」を連想させて胸が悪くなるとともに、在留外国人がペストのように扱われることを連想せざるを得ない。絵画に描き込まれた「自分も彼らの一員であることを忘れそうになった。(I almost forget that I am also one of them.)」という言葉は、ビザを求める外国人を見て作家が吐露した心情である。だが、その言葉は鑑賞者にも突き付けられていると言えよう。なぜなら、入管の職員は日本人であり、多くの鑑賞者は「自分も彼らの一員である」からだ。なお、背高泡立草と野ウサギとを描き、外来種・固有種の意味を問い直す大関智子《不確かな庭》も、同じ問題系を扱った作品と評しうる。