可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『あなたの顔の前に』

映画『あなたの顔の前に』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の韓国映画
85分。
監督・脚本・撮影・編集・音楽は、ホン・サンス(홍상수)。
原題は、"당신 얼굴 앞에서"。

 

サンオク(이혜영)がリヴィング・ルームのソファに座り、メモ帖を手に一人思案している。寝室に向かうと、妹のチョンオク(조윤희)はまだベッドで眠り込んでいた。サンオクは妹の寝姿を眺めながらコーヒーを飲む。
窓外には新しい高層マンションが立ち並ぶ。網戸越しの姿は、低い解像度のビットマップ画像のようだ。
サンオクはリヴィング・ルームのソファに座り、祈りのような言葉を唱える。私の前に見える全ては恵みです。明日はありません。昨日も明日もありません。しかし、今この瞬間は楽園です。楽園となる可能性があります。
ようやく起きたチョンオクがリヴィング・ルームにやって来て、ソファに座る姉に声をかける。久しぶりよね。そうね。私に会えて嬉しいって感じじゃないわね。まあね、それほど興奮はしてないわ、昨晩会ったんだから。コーヒーを飲んだの? あのさ、いつもそんなに冗談言ってたっけ? いいえ、ただ眠いのよ。よく眠れたの? まあ、だけど夢を見たの。良い夢ね。どんな夢? 教えられないわよ。良い夢ってお昼までは話せないの。そう言われてるでしょ。そんな風に言われてたっけ? そうよ。教えてよ。駄目だって、教えられない。でもね、幸先が良いと思う。普通じゃ無かった。よく夢を見るの? そうね。宝籤を買うべきだわ、今日。本当に変わった夢だった。宝籤を買うの? もちろん! ひょっとしてひょっとするかもよ。分からないわ、教えてくれないから。後で教えるから。朝食を食べにいかない? コーヒーとパンはどう? 良い場所知ってるの。行こうか。でも開いてるの? ええ、開店は9時だから、絶好のタイミング。待って、今日は約束があるんじゃなかった? 何時なの? 遅めのランチだけど…。行かない方がいい? もちろん行くべきよ。朝食の後、そのまま行けるでしょ。そのカフェは凄く混むの。でも今行けば問題ないわ。そうね、朝食にパンの気分。ご飯は沢山食べたからね。食べたよね。豚みたいに貪っちゃったから、お腹が出ちゃってる。冗談止めてよ。もっと食べなきゃ。そう思う? そうよ。痩せすぎよ。病気に見える。本当に病気みたい。分かったわ。サンオクがソファから立ち上がる。何するつもり? 出かけるから着替えないと。分かった。
サンオクは、スーツケースを置いた部屋に向かい、着替えを取り出す。サンオクは祈りの言葉を捧げる。この平穏と痛みを免れていることに感謝します。美味しいものを食べ、素晴らしい1日を過ごします。
川岸にあるカフェ。2人のいるテラス席の先には芝生が広がり、生け垣の向こうに川が流れる。新緑に萌える対岸とを繋ぐ橋も脇に覗いている。向かい合って座る2人の間にある低いコーヒーテーブルには、マグカップとトーストを載せた皿がある。このコーヒー、素晴らしい。おいしい。本当? 嬉しい。戻ってきて飲んだ中でこれが一番。これからもちょくちょく通いましょうよ。いいでしょ? そうしようか。そうしよう。とても落ち着くわ。韓国に住んだらいいのに。マンションを買って住めば。なんであまりかで一人暮らしなの? いいかもね。新しいマンションが建設中なの。工事はほぼおわってる。姉さんがここに住めたらいいわ。毎朝このカフェに通って川沿い散歩できるわ。すごくいいわね。私は抽選に当たって今の住まいを買ったの、だけどこの辺りの方がいいわ。最後にはここに来ることになるんじゃないかな。いいよね、この辺りに住むの。マンションを見に行ってみない? 今? このすぐ近くなの。建設中って言わなかった? そうだけど、外から見られるわ。行きましょう。コーヒーを飲んだら。いいわよ。外から見るだけでしょ? それで隣にある公園を散歩するの。こういう所に引っ越すべきだったわ。だけど今のマンションの抽選に当たったのは運が良かったの。ツいてたねの。そう。価格は今じゃ2億ウォンになったの。そんなに? いつ入居したの? 1年半前だっけ? 姉さん、ここに住みなさいよ。2億持ってない? 持ってるならもう2億借りてマンションを買いなさいよ。2億かあ。サンオクは指折り数える。20万ドル。それくらいはあるでしょ? 向こうに家を持ってるはずだし。いいえ、いつも家賃を払ってるわ。蓄えもないし。向こうではみんなそんな生活よ。ここに住んでいる人はお金持ちみたいだけど。貯金ないの? まあ、少しはね。ごく僅か。20万ドルから0を2つ取らないと。それじゃ姉さんは何の仕事してたの? ワシントンでは旅行代理店に勤めてたよね。私は経営してたの、何て言うの、酒屋、酒を売る店。今は売りに出している。本当? お酒を売ってたの? お酒を出す仕事じゃないわ。バーじゃない。ボトルの酒を売ってたの。小売店よ。シアトルに移って、お金を稼ぐ簡単な方法を探して、そうなったの。常連がつけば簡単よ。沢山常連がいたわ。本当に? 全く知らなかったわ。姉さん、情けないわ。私達2人なのよ。あなたは私のたった1人の姉さんなの。なのにお互いがどんな暮らしをしているかも知らない。私がどんな生活か知ってる? ずっと連絡を取って来なかったからね。手紙に返信もなかったし。私がいつ返事を書かなかった? アメリカに行った時? その時も、その後も。何を言ってるか分からないわ。あなたは去って、私たちは留まった。どんな気持ちだったかわかる? 理解できないの? 本当に狼狽えたのよ。あんな風に出てったから。ほとんど知らない男と一緒に駆け落ちするなんてね。話を大袈裟にしてるわ。何度か戻ったのよ。母さんが亡くなるまでは。今回はなぜ戻ってきたの? 電話をもらっととき、ものすごく驚いた。伝えたわ。本当に? 何て? ただ来たの。あなたとスンウォンに会いたかった。行く当てがあったの。スンウォンに会いたかったの? 彼に会えなくてすごく寂しかったわ。よく彼のことを考えるもの。有り難いわ。彼に会えなくて寂しいのは当然よ、私の唯一の甥なんだから。とても可愛い子だった。そうね。彼のトッポッキ店はうまくいってるわ。常連もたくさんいて、売り上げがいいの。良かったわ、嬉しい。彼は姉さんのことが本当に好きだったわ。そうなの?

 

アメリカで暮らしていたサンオク(이혜영)が久しぶりに韓国に帰国し、妹のチョンオク(조윤희)のマンションに身を寄せた。翌朝、サンオクは、ジェウォン(권해효)との遅い昼食の約束に向かう前に、チョンオクと一緒に朝食を取りに川沿いのカフェに向かう。公園を散策した後、チョンオクの息子スンウォン(신석호)の経営するトッポッキ店に立ち寄るが彼は不在だった。

サンオクの祈りのような言葉や、彼女が妹のサンオクらと交わす言葉などから、徐々にサンオクの人物が明らかになってくる。

(以下では、冒頭部分以外の内容についても触れる。)

昨日も明日もないけれど、今この瞬間が楽園である(あるいは楽園となる可能性がある)という冒頭のサンオクの言葉が鍵。
サンオクが訪れる、幼い日々を過ごしたイテウォンの民家。今は店舗として使われているけれど、隅にある小さな庭は昔の面影を伝えている。店主(김새벽)はインチョンに住んでいていて、ここには住んでいないという。サンオクは建物の中を見て回る。階下から店主と娘(최재현)が昼を何にするかじゃんけんで決める声が聞こえる。娘は負けて、母の主張するとんかつに決まり、パスタは明日にお預けとなる。サンオクは、幼い少女ジウンに出会う。ジウンは(インチョンではなく)ここに住んでいるという。座敷童であろうか。朝、赤い服を身につけていたサンオクがピンク色の服を着て、赤い服のジウン(김시하)を抱き締める。サンオクはジウンに自分の姿を重ね、自分の「後継者」たるジウンにバトンタッチするように。
映画監督のジェウォン(권해효)が、かつて女優であったサンオクと2,3日の小旅行をして、短編映画を撮影するという提案。その提案の時点=「今日」では、短編映画(撮影)は明日(未来)である。翌朝、目覚めてジェウォンのメッセージを聞くとき、映画(撮影)の企画は昨日(過去)である。サンオクには今日(現在)しかない。そのことをサンオクは十分に理解している。十分に理解しているはずだが、それでも過去への郷愁と未来への期待とに現在のサンオクは引き裂かれてしまう。愚かしい自らを嘲笑うサンオクを笑える者がいるだろうか。
秀麗な才人からの誘いは、休業中の小さなカフェの中に急遽設えられた宴席(中華料理店)でのことである。雨に烟る店は竜宮城のようであり、鍵によって永遠に閉ざされる。紫煙とともに「トンネル」を抜けると現実に帰り着く。