ミシェル・ウエルベック『セロトニン』〔河出文庫ウ-6-5〕河出書房新社(2022)を読了しての備忘録
Michel Houellebecq, 2019, "Sérotonine"
関口涼子訳
フロラン=クロード・ラブルストは、40代半ばで、農業食料省の契約調査員として高給取りだった。パリ15区のボーグルネル地区にあるトーテムタワーで、パリ日本文化会館に勤務する20歳年下の日本人女性ユズと暮らしていた。ユズの人生設計に自己の死が組み込まれていたことを知って彼女に対する愛が冷め、アンダルシアでのヴァカンスも早々に切り上げた。ユズとの関係を解消するべく、ドキュメンタリー番組で偶々知った蒸発を採用することにする。アルゼンチンのドメーヌに行くと言って賃貸契約を解除し、アルゼンチン大使館の農業輸出コンサルタントになると言って仕事を辞め、13区のメルキュールホテルに身を潜めた。1ヶ月後、シャワーや風呂を使うことができなくなっていたフロラン=クロードは、近くの精神科医を訪れ、抗鬱剤のキャプトリクスを処方してもらう。以後、自己承認と他者承認に結びつくホルモンであるセロトニンの分泌を増加させる錠剤を、コーヒーを飲み、煙草を一服した後に服用するのが朝の日課となった。
蒸発したフロラン=クロード・ラブルストが、デンマーク出身の医学生ケイト、舞台女優のクレール、獣医科学生のカミーユ、直近の同棲相手であったユズらの恋人と、唯一の親友エムリック・ダルクール=オロンドとの思い出を語る。
(略)外の世界は辛く、弱者には容赦なく、約束はそこでは決して守られず、愛は、おそらく唯一の、信じるに足りるものだったのだ。(ミシェル・ウエルベック〔関口涼子〕『セロトニン』河出書房新社〔河出文庫〕/2022年/p.180)
だがフロラン=クロードの愛のモデルになっているのは、彼の両親が交わした不朽の愛があった。
1週間後、両親は、ベッドに並んで横たわって発見された。周囲に迷惑をかけないようにという配慮から、父親は警察に手紙で知らせており、その封筒には合鍵さえ入っていたのだ。
彼らは薬を夕方に飲んだ、それは、結婚40周年記念の日だった。憲兵士官は、両親は速やかに死に至ったと言って僕を安心させようとした。早かったかもしれないが、瞬時ではなかったのだろう、ベッドでの姿勢を見ると、両親は最後まで手をつないでいようと試みたのだろうが、苦痛のために痙攣し、手を離していた。
(略)
(略)彼らの仕草や微笑みには、2人だけに通じるものがあるといつも思っていた。ぼくには決して入り込めない何かがあると。だからと言って、両親がぼくを愛していなかったと言いたいのではない、彼らは無論ぼくを愛していたし、どの点から見ても彼らは申し分ない両親だった、常に注意深く、しかし適度にぼくを見守ってくれ、必要な時には寛容だった。しかしそれは同じ愛ではなく、彼らは2人だけで超自然の魔法の輪(2人の相互理解のレベルは本当に並外れていた、ぼくは少なくとも2回、どう見てもテレパシーだろうというケースに立ち会ったことがある)をこしらえ、ぼくはいつもその輪の外にいた。ぼくは一人っ子で、高校卒業後アンリ4世高校の環境科学生命工学学院準備クラスに進学したが、サンリスからの公共交通の便が良くないので、パリで下宿を借りた方がずっと都合がいいと説明した時、母親が、わずかであれ確実に安堵したようだったのに気がついてしまったのだ。母親が最初に思ったことは、これでやっと夫婦水入らずの生活ができるということだった。父親の方は、喜びをほとんど隠そうともせず、すぐさま諸々の手続きをし、1週間後にはぼくは不必要に贅沢な下宿に引っ越ししていた、自分の同級生が仕方なしに住んでいた女中部屋よりもずっと広く、しかも高校から徒歩5分でエコール通りに面していたのだ。(ミシェル・ウエルベック〔関口涼子〕『セロトニン』河出書房新社〔河出文庫〕/2022年/p.80-82)
「2人だけで超自然の魔法の輪」を作ることのできるほど強固な絆を築く相手を見付けることは容易ではない。しかも両親は死を選択することによってその愛を永遠にしてしまったのだ。
(略)ぼくは様々な国の若い女の子を肉体的に知り、そこで、愛情はある種の差異をベースにしなければ発展しないと確信した、似た者同士は決して恋に落ちないのだ、差異と言っても様々ではあるが。例えば、極端な年の差がある場合には、前代未聞の情熱が生まれるとはよく知られている。単なる国籍や言語の差も無視できない。愛する者が同じ言語を話すのは都合が悪く、言葉によって交流し真の相互理解ができるのは良くない、言葉は愛を生み出すためではなく人々を分裂させ憎悪を掻き立てるためにあり、言葉は交わせば交わすほど人を分かつが、ほとんど言語でないようなたわいのない愛の言葉、飼い犬に話しかけるように相手の男や女に話すことで、無条件に続く愛が作り上げられる。シンプルで具体的な話題に言葉を制限することができれば――車庫のキーはどこ? とか、電気屋さんは何時にくるの? とかであればまだ救われるかもしれないが、そこから先は統一を妨げ、愛を壊し、離婚に至る領域が広がっているのだ。(ミシェル・ウエルベック〔関口涼子〕『セロトニン』河出書房新社〔河出文庫〕/2022年/p.94-95)
両親の「テレパシー」への共感が、言葉への不信に対する背景としてあろう。
20歳年下の日本人女性ユズとの交際は、「単なる国籍や言語の差」や「極端な年の差」によって愛や情熱が期待できるためであっただろう。
しかしながら、彼女に対する愛が消え失せたのはそのせいではなく、一見当たり障りのない状況に端を発していた、それはユズが2ヶ月に1回両親にかける電話のすぐ後、ぼくたちが交わした1分にも満たない会話のせいだった。そこで彼女は日本に帰るかもしれないと言ったのだ。それは間違いない、そして当然ながらぼくはその件について詰問したが彼女は安心させようとして、帰国はずっと先のことで、ぼくが気をもむことはないと答えたのだが、その時ぼくは理解した、瞬時にして理解したのだった、白色の閃光がぼくの明晰な意識をすべてかき消したのだ。それから通常の意識に戻ると、ぼくは短い質問をいくつかして、自分が持っていた気がかりがすぐに正しいと分かったのだった。彼女は理想的な人生プランにおいて最終的に日本帰国を計画しており、それは20年後か30年後か知らないが、ぼくの死後すぐ、つまり彼女はぼくの死を自分の人生設計にいれ、それが勘定の中に入っているのだ。
ぼくの反応は理性的ではなかったかもしれない、彼女は20歳若いのだからぼくよりも長生きすると考えるのが妥当で、実際ずっと長生きするであろうが、無条件の愛によって無視され、はっきりと否定されるのはまさにそういったことで、無条件の愛はそうした不可能性、否認の上に築きあげられている、キリストへの信からでも、グーグルの不死計画を頼りにすることに裏付けられているのでもいいが、どちらにせよ、無条件の愛において愛する人は死ぬことができず、定義上不死なのである、ユズのリアリズムは愛の不在の言い換えであり、愛の欠陥、その不在は決定的であり、ロマンティックで無条件の愛も一瞬にして冷めるというもの、そこからはお互いの都合による愛に入るのだが、その時点でもう終わりだ、ぼくたちの関係は終息しているとぼくには分かった、この関係はできるだけ早く打ち切らなければならない、だってこれまでになく自分の身近に女性ではなく一種の蜘蛛を飼っている気がしていたからだ(略)(ミシェル・ウエルベック〔関口涼子〕『セロトニン』河出書房新社〔河出文庫〕/2022年/p.74-75)
両親の自死は、「無条件の愛において愛する人は死ぬことができず、定義上不死」という条件を満たすもので、それを叶えられないとき、「愛の欠陥、その不在は決定的であり、ロマンティックで無条件の愛も一瞬にして冷めるというもの、そこからはお互いの都合による愛に入るのだが、その時点でもう終わり」という判断に至ってしまう。
(略)ただ、ぼくは孤独で、文字通り一人ぼっちで、その孤独からはどんな喜びも見出せないし、精神の自由な機能もない、ぼくには愛が必要で、それもある具体的な愛が必要だった、一般的な愛も必要だが特にヴァギナが必要で、ヴァギナならたくさんあった、地球はそれほど大きくない星なのに何十億とある、考えてみるとそんなにヴァギナがあるなんてすごいことだ、めまいがするくらいだ、どんな男もこのめまいを感じたことがあると思う、一方でヴァギナはペニスを必要としている、少なくともヴァギナはそう考えているのだ(幸せな誤解、そこに男の快楽が存在する、種の保存と社会民主主義の存続も)、だから原理的には問題は解決可能だがいざ実践となるとそうもいかず、こうやって1つの文明が死ぬのだ、大騒動も危険もドラマも被害もなく、文明は倦怠により死ぬ、自分自身に嫌気がさして死ぬのだ、社会民主主義がぼくに提案できることなどもちろん何もなく、ただ何かが欠け続け、忘却への呼びかけがあるだけ。(ミシェル・ウエルベック〔関口涼子〕『セロトニン』河出書房新社〔河出文庫〕/2022年/p.159-160)
アトム化された存在に対する自覚が絶望に誘う。抗鬱剤が不可欠となる。抗鬱剤のキャプトリクスには性欲の喪失と不能などの副作用がある。
ところで本作に時折姿を現わす動物が通奏低音となっている。
(略)ぼくはその養鶏場を熟知していた、巨大な養鶏場で、30万羽以上の鶏がいて、卵はカナダからサウジアラビアにまで輸出されるが特に不潔なことで悪評高く、フランスでも最低の場所の1つで、ここを見学した者は誰でもネガティヴな見解を下していた。高所から高光度のハロゲンランプで照明を当てた倉庫のような場所で無数の鶏が生き残ろうともがき、詰め込まれている鶏同士が重なり、柵はなく「直飼い」で、羽がもげ、肉がこそげ落ち、肌は真っ赤になり、ワクモに血を吸われ、死んだ鶏の身体が朽ちていく中で暮らす、最長でも1年という短い一生を、一瞬ごとにただ怯えて鳴いているのだ。もちろんもっとましな養鶏場でも状況は変わらず、最初に我々を驚かせるのは絶え間ない鳴き声、鶏が向けてくる絶え間ないパニックの目つきであり、理解しがたいという視線だ、鶏たちは哀れみを求めない、それは不可能だろう、でも鶏には分からないのだ、どうしてそんな状況で生きなければならないのかが。(ミシェル・ウエルベック〔関口涼子〕『セロトニン』河出書房新社〔河出文庫〕/2022年/p.167)
養鶏場の鶏たちはアトム化した人間の姿と重ねられるだろう。本作の劈頭を飾る「白く、楕円形で、指先で割ることのできる小粒の錠剤」とは、鶏たちであり、人間たちである。
(略)環境破壊や人獣共通感染症の流行、およびそれらに伴う人間生活の変容を見ても分かるように、人間は各々の時代や社会における人外存在との関係によっておのがあり方を左右される。さらに、畜産業の発展が土地や資源の簒奪を狙った紛争に繋がり、動物支配の諸形式が奴隷制や優生政策といった人間支配の原型になるように、人間動物関係は人類史の形成因ですらあり続けた。(井上太一「訳者解題」ディネシュ・J・ワディウェル〔井上太一〕『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』人文書院/2019年/p.388)
フロラン=クロードは動物に優しい眼差しを向ける。
クレールと別れた時期、ぼくはノルマンディーの乳牛とのふれあいに癒しを見出していた、乳牛はぼくにとっては慰めであり、新しい発見に満ちていた。でも牛は見慣れた存在でもあった。小さい頃、家族は毎年夏の1ヶ月をメリベルで過ごした(略)
ぼくは登山風景の美に心を奪われることはなかったが、乳牛には愛着を持っていた、放牧地から放牧地へと移動する群れにしょっちゅう出くわしていたのだ。(ミシェル・ウエルベック〔関口涼子〕『セロトニン』河出書房新社〔河出文庫〕/2022年/p.167)
フロラン=クロードの唯一の親友エムリック・ダルクール=オロンドは酪農に従事していたが、彼も動物に対して優しい。
「使ってない、ぼくは有機農法の手引きを尊重しているし、トウモロコシの利用自体も制限しようとしているんだ、乳牛は本来ならば牧草を食べるものなんだから。あるべき仕事を心がけてる、工業的な畜産とは何の関わりもない、さっき見て分かってくれただろうけど、牛たちにはちゃんとしたスペースがあるし、冬でも毎日少しは外に出してる。でも、物事があるべきように仕事をしようとすればするほど、ビジネスとしては立ちいかなくなるんだ」(ミシェル・ウエルベック〔関口涼子〕『セロトニン』河出書房新社〔河出文庫〕/2022年/p.150)
そして、フロラン=クロードの人生を最も幸福にしたのは、獣医科学生(後に獣医師)のカミーユなのだ(そして、ユズの獣姦は陰画と言えよう)。