可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 宇野亞喜良個展『万華鏡』

展覧会『ギンザ・グラフィック・ギャラリー第392回企画展 宇野亞喜良 万華鏡』を鑑賞しての備忘録
ギンザ・グラフィック・ギャラリーにて、2022年12月9日~2023年1月31日。

俳句をモティーフとした作品を特殊加工によって装いを改めて展示する1階と、1960年代のポスターを紹介する地下1階とで構成される、宇野亞喜良の個展。

 宇野は愛知県名古屋市中区で、室内装飾家の父と、喫茶店白薔薇」を営む母のとの間に生を享け、戦後、中学生の頃から、春陽会を中心に活動していた洋画家・宮脇晴(1902-85年)に絵を学び、画家を志すようになった。
「当時はクロッキーの研究所がいくつかあって、僕は会場荒らしみたいに一週間に何軒かまわるんです。(中略)少年の図々しさで、三年間ぐらい一週間に何十枚も描いていたので、大体どんな部分でも見ないで描けるようになっていました。」(『月刊絵本 特集・宇野亞喜良 華麗な変形譚』/すばる書房/1978年12月号)
 わたしは彫刻家・佐藤忠良(1912-2011年)に、20代初めに彫刻を教わる機会があった。佐藤は、それぞれ姿勢が違った3人の裸婦のデッサンを見事に描き上げ、「女性の性器も、ちょっとした身体の動きに呼応して変化している」、と語りながら一本の線でそれぞれ違った方向に性器を描いてみせたのである。わたしは、頭を殴られたぐらいの衝撃を受け、人間の身体こそ、息を吹くと動き、また静止するアレクサンダー・カルダー(1898-1976年)の動く彫刻「モビール」ではないかと思ったのだった。
 卓越した宇野のデッサン力とは、「モビール」の絶妙なバランス感覚を会得したからこそ備わったこと。デフォルメして極端に痩せていたり、長身だったりする人物や動物を描いても、骨格が崩れることがないのは、そのことに因る。(矢萩喜從郎「内側に入ることを拒否される、飾り窓の少女、あるいは女性」)

間村俊一の俳句「虹盗みおほせし手際見事なり」に取り合わせたイラストレーションは、虹の帯を身体に巻き取って歩く少女である。スタジオReのポスター(1965)には、角を伸ばした鹿に心を奪われた女性が、その身体に巻き付いた帯を解くかれてしまうが、その帯の中には空洞が広がっている。作家を魅了する女性たちは空洞である。なぜなら、女性は子宮であり、膣であるからである。女性の美しさは空洞を形成する刹那の光の帯に存在するのだ。変幻自在の色と形とを制御するのが作家の真骨頂である。

 寺山修司(1935-83年)と加村恒久(1928-2008年)の二人が、期せずして宇野のことを刺青師だと言っている。(略)
 (略)
 わたしが今や故人となった二人の批評に疑問を挟まざるを得なくなる。それは何故かと言うと……。宇野の絵は、絵筆、ペン、鉛筆とどの様な道具を使っても、瞬時に宇野の世界が画面(紙、キャンパス)から立ち上がることを想像させ、決して彫られて刻印された世界を想像できないからである。
 このわたしの感想は江國香織(1964-)の感想と似ている。
「宇野さんの左手から生まれる線は、そもそも人間界に属していない。生れたそれは、するすると立ち上がる。」(「すべての物語が地続きな場所」/『宇野亞喜良クロニクル』/グラフィック社/2014年)

(矢萩喜從郎「内側に入ることを拒否される、飾り窓の少女、あるいは女性」)

たとえば蛍光色に近いオレンジや黄緑が目を引くサイケデリックな印象のケイコの店のポスター(1967)では、トカゲの尻尾が象徴する男性器が女性器を象徴する薔薇の花に伸ばされるが、そのイメージが女性の身体の上を擦っているように、男根は決して女性を犯すこと出来ない。すなわち、宇野亞喜良が描く、大きく股を開き、花を売るようにも見える不良少女たち(飾り窓の少女たち)は、決して貞操を失うことはない。彼女たちこそ、怪しい光を放って魅惑しながら、何人も踏み込ませないユートピアなのだ。