展覧会『大場さや「地の餡」』を鑑賞しての備忘録
Gallery KINGYOにて、2023年5月2日~14日。
コンクリートやガラスを用いた立体作品30点と2点の版画とで構成される、大場さやの個展。
入口側の展示台の上に置かれた《地の餡(pink)》は、黒っぽいコンクリートの直方体が半分に割られ、中から淡い桃色と黄の層が覗く。同じ展示台にセットで置かれた《地の餡(green)》は、コンクリートブロックの中が明るい緑と黄の層になっている。どちらも上面がごつごつしているのは、地面を表わすためであろう。黒色の皮に包まれた中から現れる明るい中味は、題名に含まれる「餡」という言葉と相俟って、和菓子のような印象を生んでいる。
例えば新型出生前診断(NIPT)によって染色体異常による疾患リスク判定を出生前に行えるようになったように、科学・技術の進歩は、かつて人間が関知し得なかった事柄の把握を次々と可能にしつつある。「地の餡」は黒い皮=ブラックボックスの中から虹色の未来を引き出す行為のメタファーであろうか。
かつては、私がなしがことであって「私ごとき」に責任は負えなかった事例がたくさんあった。こうした事例を前にして、かつての人間たちは、「運命」の一言で放置した。またそれに逆らうこと――おおよそは「死」を意味するだろう――が「人間的有自由」の核心を担っていたといえるかもしれない。しかし、ある程度、私に操作可能な技術が見出せるならば、私はそのことに不可避的に向き合わなければならなくなる。こうしたことは、環境や生命、それと絡む安全やリスクをめぐる問いにおいて顕著になる。地震や津波によって誰かが傷つき誰かが死んでいくことは、まさに「天災」なのだから、そこで誰かが責任をとることも、責任感をもつこともかつてはありえなかった。おそらく、そこで私たちの祖先は、ただひたすら「祈った」に違いない。
しかし、技術的な装置によって地下の断層が可視化され、観測装置によって津波の予想が可能になってきて、その正確さが競われる。すると今度は、断層の上にマンションを建てたこと、津波を予知できなかったこと、計器がそんなに巧く働かなかったこと、誰かがさぼっていたことに責任追及の目が向けられる。私たちの相手にしている自然は、とても私が捉えられる対象ではありえないのに、その責任が問われることになる。これを倒錯的といわずしてどういえばいいのか。隠蔽されているのは、偶然性と賭けの概念ではないのだろうか。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.256)
展示室中央には、いずれも《地の餡(crack)》と題された作品22点が板の床に直に並べられている。《地の餡(pink)》や《地の餡(green)》との違いは、2つに等分するのではなく、5つないし6つの違う形に割られていることである(黒い皮が明るい黄色を包むもの5点、灰色の中に灰青・白・黒の6点、灰色の皮に黒・暗黄色・白・黒の層の5点、白と黒の層にピンクと黄を挟んだもの6点)。どのような形に入るか分からない亀裂(crack)は、「偶然性と賭け」の象徴であろう。「地の餡」は、パンドラの箱を開ける「賭け」=リスクを訴えるのかもしれない。